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      <title>目黒考二の何もない日々</title>
      <link>http://column.webdokusho.com/koushin/meguro_n/</link>
      <description>▼ 「笹塚日誌　ご隠居編」
好評発売中！

[最新刊ページ]</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>７月４日（金）</title>
         <description>　関東はとうの昔に夏競馬に突入しているが、関西はただいま開催中の阪神が終了しないと夏競馬に突入しない。つまり、７月の３週目から全国的に夏競馬が始まるのである。その夏競馬の開幕にあわせて、なんと３連単が全レースで発売になるらしい。おいおい。

　中央競馬の３連単の発売は９Ｒ以降に限られている。だから３場開催のときに３連単を発売するのは全部で１２レースである。それがなんと、秋競馬が開幕するまでの８週間の期間限定とはいえ、いきなり３６レースになっちゃうとは大変だ。

　そんなのに見向きもしなければいいんだけど、売ってると買いたくなる。競馬をやらない人には関係ないことだが、あなた、１００円が１０００万円になる可能性があるんですよ。それがこれまでは１日に１２レースしか売ってなかったのに、この夏は３倍になるわけです。つまり、悩みが３倍になるということだ。困るよなあ。

　と思っていたら、『外れ馬券に微笑みを』（ミデアム出版）の見本が届いた。週刊ギャロップに連載している藤代三郎名義のコラム「馬券の真実」を年に一冊、単行本としてまとめてもらっているこの「外れ馬券シリーズ」もこれで１４冊目だ。ということは雑誌の連載は１５年目に入っているのか。忘れていることが多いので、つい読みふけってしまって本日は仕事にならなかったが、よくこれほど失敗をしてきたものだと我ながら感心する。

　この本は来週発売になるのだが、版元に迷惑がかからない程度には売れてくれると嬉しい。そういえば６月には、双葉文庫から北上次郎『冒険小説論』が出た。日本推理作家協会賞受賞作全集77巻である。この元版は１９９３年に出ているから、なんと１５年前に出た本だ。５月には、大森望との共著『読むのが怖い！　帰ってきた書評漫才〜激闘編』が出ているから、５〜７月の３ヵ月連続で私の本が出たことになる。こんなこと初めてだ。もちろん今年はもう何も出ません。</description>
         <link>http://column.webdokusho.com/koushin/meguro_n/2008/07/04/100016.php</link>
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         <pubDate>Fri, 04 Jul 2008 10:00:16 +0900</pubDate>
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         <title>６月１３日（金）</title>
         <description>　車のナンバーを見るのが癖になっている。交差点で信号の変わるのを待っているとき、止まっている車のナンバーを見る。あるいはタクシーに乗っているとき、すれ違う車のナンバーを確認する。意識して見ているわけではない。いつも無意識に見ているのだ。だから「癖」なのである。ナンバーに「春日部」とか「習志野」とか地名が付いていますね。あれを確認するのである。

　たとえば近所の駅周辺に、自転車とバイクが大量に停められている。線路際がその駐車スペースになっていて、斜めにずっと停められているが、そこを歩くとき、一台づつ確認していくのである。もちろん圧倒的に「町田市」が多い。中に「青葉区」とか「八王子市」があるが、これはどちらも隣接している街だから、そういうバイクが停められていても不思議ではない。ところが中には、どうしてこんなところに停まっているの、というものがあるのだ。

　先日見かけたのは、「松山市」と「呉市」で、ええっとびっくり。そんな遠くからどうやってお前は来たの。こういうのを先に見てしまうと、「前橋市」が出てきても驚かない。えっ、前橋なのかよ、と驚きたかったという気がしないでもないが、こればかりは仕方がない。

　ずいぶん前、皐月賞を観戦しに中山競馬場まで早朝車を飛ばしたことがある。私が運転したわけではなく、知人の車に乗せてもらっただけだが、ＪＲＡの駐車場に停めて、正門に向かおうとしたら、「函館」ナンバーの軽自動車がその駐車場に停まっていたので、思わず足がとまってしまった。函館かよ。見て見て、と知人に言ったが、どうして私が感服しているのか知人には理解できなかったようだ。

「松山市」や「呉市」のナンバーをつけたバイクは、そこからいきなり町田にやってきたわけではないのかもしれない。ＪＲＡの駐車場に停まっていた「函館」ナンバーの軽自動車も、皐月賞を観戦しに北海道からやってきたとは限らない。たまたま東京か千葉にきた人が、その日中山を訪れたということも十分にありうる。他にもいろいろな事情があっても不思議ではない。

　しかしそういう遠い地のナンバーをつけたバイクや車を見かけるたびに、そこから延々とやってきたイメージが浮かぶのである。で、すごいよなあと勝手にため息をつくのだ。ええと、それだけの話なんだけど。</description>
         <link>http://column.webdokusho.com/koushin/meguro_n/2008/06/13/125728.php</link>
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         <pubDate>Fri, 13 Jun 2008 12:57:28 +0900</pubDate>
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         <title>６月５日（木）</title>
         <description>　私の実家は池袋から歩いて２０分ほどのところにある。池袋駅を背にして西口に降り立つと、右前方に伸びているのが東上線。左前方に伸びているのが西武池袋線。その東上線の大山という駅と、西武池袋線の東長崎という駅を線で結び、池袋西口を背にしてまっすぐ前方に引いた線の交わったところに、私の実家はある。

　ようするに、どの駅からも遠い。したがって高校時代は池袋までバスに乗っていた。そのバスに乗ると約１０分。で、先日、実家に行く用があったので、実に久々にそのバスに乗ったのである。２５年ぶりか。当時とは池袋のバス停留所の位置も変わっていたが、これはすぐにわかる。
　問題は、実家の近くにあった停留所の名前である。いくら考えても思い出さない。まあ、近くに行けばわかるだろうと、とりあえずそのバスに乗ってみた。バスは大通りから狭い道に入り込んでいく。方角はいいのだ。間違いなく実家の方にむかっている。しかし、こんなに狭い道だったのか、とびっくりするほどの道をバスは走っていく。その道幅は、私の記憶の半分しかない。
　夜なので外の景色がよく見えない。記憶を振り絞る。「水道タンク裏」というバス停留所名だけは記憶にあるが、ほかの停留所名はまったく記憶にない。そろそろ、実家の近くなのだが、こんな名前じゃなかったよなと降りずにいると、バスは右に曲がっていくのでようやく通りすぎたことを知る。さっきの停留所でよかったのだ。結局、一つ先の停留所で降り、戻ることになったが、そのバス停まで戻っても、その名前は記憶にない。本当にこんな名前だったのだろうか。

　先週、池袋で読売新聞の取材を受け、夏目書房で撮影したあと、しばらく西口付近を歩いたが、街の風景が変貌していることに驚いた。高野書店がもはやないことは知っていたが、近藤書店までないとは知らなかった。大学生のとき、麻雀で大勝ちしてすぐに萩原朔太郎全集を買ったのは近藤書店だ。大通りは変わってないが、そこに面した商店がほとんどといっていいほど様変わりしているのだ。
　実家近くの家々の風景も、私の記憶とはまったく違っていた。すぐ近くに鬱蒼とした木々のある一角があり、そこを「森」と私たちは呼んでいた。その近くの豆腐屋を「森の豆腐屋」と呼び、パン屋さんは「森のパン屋」と呼んでいた。ところが今回、訪ねてみると、これが森なの？　と驚くほど、普通の木が一本あるだけだった。たしかに大きな木ではあるけれど、森というほどのものではない。
　近所の家も建て直したのだろう。大半の家が見知らぬ家になっている。実家の前は駐車場になっていたからびっくり。そうか、Ｎさんは引っ越していったのか。さらに住宅街だというのに、手打ち蕎麦の店があったので驚いてしまった。その場所に住んでいたのは誰さんだったのか、名前を思い出せない。

　その手打ち蕎麦の店の前の路地で、小学生の私たちはローラースケートに興じたのである。一日中遊んでいても、車は滅多に通らなかったので、路地は私たちの遊び場だった。そうだ。森の真下に、紙芝居のおじさんがやってきて、みんなで駆けていったことを思い出す。母親から貰った50銭を持っていくと、「ぼうや、それは使えないよ」とおじさんに言われ、泣きながら帰ってきたことを思い出す。でも母親に言えず、土間の入り口に佇んでいたら、どうしたのと母親が振り向き、わけを話すと、かあさんは悲しそうな顔をした。そうか。あれは私がまだ小学校にあがる前だ。
「じゃあ、オレが言ってやる」と小学生の兄が、紙芝居のおじさんに交渉して、５０銭でせいべいを買ったことは覚えている。そのとき、どんな紙芝居をやったのか、そういうことはまったく覚えていないが、土間で母親が掃除をしていて、その後ろ姿を見たら何も言えなかったこと、紙芝居のおじさんとの交渉がうまくいったときの兄の得意満面の顔。そういうことは覚えている。ほかのことは全部忘れても、そういうことを覚えていればいいか、と思いながら、バスに乗って帰ってきたのである。
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         <link>http://column.webdokusho.com/koushin/meguro_n/2008/06/05/215337.php</link>
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         <pubDate>Thu, 05 Jun 2008 21:53:37 +0900</pubDate>
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         <title>５月１９日（月）</title>
         <description>　週刊朝日に連載中の嵐山光三郎「コンセント抜いたか」は愛読しているコラムだが、その５月９日号に、あるパーティで出版業界の先輩から「６０歳をすぎたら原稿執筆依頼なんか来ねえぞ」と言われたエピソードが出てくる。その出版業界の先輩とは、「週刊女性」の編集にたずさわったり、「家庭画報」を創刊し、プレジデント社の社長になり、エッセイや小説も書いた諸井薫である。
　諸井薫さんは嵐山さんより１１歳上で、「俺がそうだった。俺だけじゃない。ＮＡだってＹＪだって、みんな、仕事が来ねえんだ」と言ったそうだ。

　そのとき、嵐山光三郎さんは５９歳で、月刊誌５本、週刊誌３本の連載を持ち、テレビ番組のレギュラーもあって結構売れていたが、そう忠告されたので用心ぶかく、そーっと６０歳を迎えたものの、６１歳になっても６２歳になっても、さしたる収入減にはならなかったという。
　変化が現れたのは６３歳からで、６４歳、６５歳と仕事の量が減り、６５歳のときの収入は５９歳のときの半分になった、と書いている。

　いろんな先輩作家と会うたびに、「いくつぐらいからビンボーになりましたか」と尋ねると、「６５歳」という答えが多く、「６５歳になると、原稿を注文されても書く体力がなくなるし、性欲、金欲、表現欲がなえるんだ」というのも興味深かったが、変化が現れたのは６３歳からだったというくだりがいちばん印象に残る。
　というのは、私、今年で６２歳になるからである。おお、あと１年じゃん。本人はまだまだ若いつもりでいるが、６２歳といえば、おじいちゃんだ。そんな歳になったとは信じられないが、これから仕事が激減するとは複雑な感慨がある。

　もっとも収入が半分になったというのは、月刊誌５本、週刊誌３本の連載を持ち、テレビ番組のレギュラーもあった人の場合であって、つまりもとが大きい人の場合なのではないか、という気がしないでもない。書評家の収入などはたかがしれている。もとはかなり小さいから、これが半分になったら大変だろう。

　いや、仕事は減らないと言っているのでない。やっぱり仕事は減るだろう。どんなジャンルでもどんどん世代交代していくものであるから、書評家だって例外ではない。オイルショックのときに各誌から書評ページがいっせいになくなったことがあるように、歳を取らなくても仕事の場が失われることは今後も十分にあるけれど、歳を取れば確実に仕事は減っていくのである。

　しかし、その境目が６３歳であるとは知らなかった。まだ３０代や４０代の人、あるいは５０代前半の人にとって、６３歳というのはおそらく遙か彼方の出来事で、「そんなの全然先のことだろ」と実感がないに違いないが、私にとってはとてもリアリティのある年齢なので、うーむうーむと深く感じ入ってしまったのである。

　ところで、ＮＡさんとＹＪさんって、誰のことなんでしょうか。
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         <link>http://column.webdokusho.com/koushin/meguro_n/2008/05/19/093339.php</link>
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         <pubDate>Mon, 19 May 2008 09:33:39 +0900</pubDate>
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         <title>５月１２日（月）</title>
         <description>　千駄木往来堂書店と、神田三省堂書店のイベントは無事に終了。その神田三省堂書店のトークショーが終わって打ち上げの会場に向かおうとしたら、「これ、見本、出来たから」と大森望が差し出してきたのが、大森望と豊崎由美の共著『文学賞メッタ斬り！　たいへんよくできました編』（パルコ出版）。シリーズ第４弾。

　シリーズ第３弾の『受賞作はありません編』は、大森望と対談した折りにやはり見本を貰い、町田に帰ってくるまで読み続け、とうとう自宅に着く前に読了してしまった記憶があるが、読み出したらホント、止まらないのだ。

　私は、この二人とは小説の評価が食い違うことが多く、この本の中で語られる小説についても必ずしも同意見ではないのだが、しかし読み物としては最高に面白い。それは噂の真相を読んでいたときのように、業界裏話が面白いということが大きいが、もう一つ、理由がある。

　大森望とサイト誌で対談をやって８年になるが、その前から本の雑誌の座談会などで会っているから、長い付き合いになる。私の『笹塚日記　ご隠居篇』に寄せた原稿の中で、「目黒考二はとにかくわがままである」と大森望は書いているが、「ワガママ」というよりは「マイペース」と言ってほしいなという気はするものの、まあ、これは認めてもいい。しかし私のキーワードが「ワガママ」だとするならば、大森望のキーワードは「イジワル」につきる。

　唇の端を歪めて褒める（活字になるとそれが伝わらない！）ということ自体が、そのイジワルな側面を語っているが、しかしこの「文学賞メッタ斬り」シリーズになるとそれが俄然活きてくる。もともと批評というのはイジワルなものだから、どんぴしゃなのである。そうか、それでは「ワガママ」な私よりも、「イジワル」な大森のほうが正統的な批評家ということになるか。うん。たぶんそうなんでしょう。

　それにしても、もう４冊目だというのに飽きるどころか、もっと読みたくなるというのが不思議。年に１冊じゃ待ち遠しいんで、年２回刊にしてくれないかな。
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         <link>http://column.webdokusho.com/koushin/meguro_n/2008/05/12/095233.php</link>
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         <pubDate>Mon, 12 May 2008 09:52:33 +0900</pubDate>
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         <title>５月７日（水）</title>
         <description>　６月末に仕事で某地に出かけるのだが、仕事が終わり次第、その日のうちに新幹線に乗ってもう一つの目的地に行くか、それともその日はその地で宿泊するか、それを決めたくて連休中に現地の知人にメールを出した。

　私を呼んでくれたのはその知人であり、彼に迷惑をかけてはいけない。ようするに彼の了承が得られれば、その日のうちに新幹線に乗って移動しようと思ったのだ。
　すると折り返し、彼からメールがきた。ずいぶん先の話をするのが好きだなあと彼は言うのだ。普通、６月末のことならば、６月中旬にならなければ話を具体化しないよ、と言うのである。で、こんなふうに書いてきた。　
　せっかちなのか、たんに予定を立てるのが好きなのか。計画が崩されることが怖いのか、対人関係に不安があるのか、すべて管理したいのか、思う通りに世の中を動かしたいのか（笑）、そのへんの深層心理、エッセイにでもしてください。

　そうかなあ。月末のことを中旬になってから決めるとは遅すぎるんじゃないの。それではホテルが満室になってしまいかねない。そうなのである。私が早く物事を決めるのは旅に関することだけだ。どのみち行くことが決まっているのなら、ホテルを押さえるのは早いほうがいいではないか。遅くする意味がなんにもない。
　私の知人に、そういう物事をなかなか決めないやつがいる。ただいまは地方都市に転勤中で、ときどき東京に遊びに来るのだが、日程が決まっているなら早くホテルを予約すればいいのに、いつもぎりぎりまでしないのである。何とかなりますよ、というのが彼の癖だ。いつだったか、府中近辺のホテルがどこにもとれず、結局新宿のマンガ喫茶で夜を明かしたことがある。何とかなってないぜ。

　ずいぶん前、突然菊花賞の指定がハガキ抽選に当たり（当時はその連絡が来るのが数日前だった）、あわててホテルを探したことがある。電話をかけたのは浜本で、私は見ていただけだが、淀から大阪に向かって１駅ごとに電話しまくったら、寝屋川という町のビジネスホテルで空室があった。それを今でも覚えているのは、「窓のない部屋にしますか、窓のある部屋にしますか」と尋ねられたことで、浜本が受話器を押さえて、「どっちにします？」と聞いてきたからだ。その設問があまりに斬新だったので、これは忘れがたい。後年、三重県の競馬友達にその話をしていたら、「そのホテル、ぼくも泊まったことあります！」と言われたから、直前予約の客には有名な宿だったのかも。

　つまり、そういうことがあるから、ホテルは早く予約しておいたほうがいいわけだ。私だって、普段のスケジュール表で決めるのは１ヵ月先までで、それ以上は決めていない。仕事はいつも１ヵ月先までしか決まってないから、書きたくても書くことがない、ということもあるけど。ところが旅行はずいぶん前から決まっているから、早く決められるのである。出来れば、新幹線の切符も早く買いたいところだが、１ヵ月前にならないと買えないのは不満。

　ところで、さっきのメールにあった「対人関係に不安」というのがどういう意味かわからない。物事を早く決めるのが、どうして「対人関係に不安」がある、と繋がるのか、誰か教えて！
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         <link>http://column.webdokusho.com/koushin/meguro_n/2008/05/07/100529.php</link>
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         <pubDate>Wed, 07 May 2008 10:05:29 +0900</pubDate>
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         <title>４月２８日（月）</title>
         <description>　古い知り合いからメールがきた。『読むのが怖い！　帰ってきた書評漫才〜激闘編』（ロッキング・オン）に誤植があったという指摘のメールである。２００６年のブック・オブ・ザ・イヤーで、大森望があげた小川一水『天涯の砦』について、面白かったという私の発言を受けて、大森望が「去年翻訳が出たジェフリー・Ａ・ランディスの『火星縦断』も北上さんに薦めればよかったね。地球に帰る帰還船が壊れちゃって、火星に取り残された五、六人が赤道から北極までを旅するサバイバル冒険小説」と言ったあと、私は次のように続けている。

　北上　面白そうじゃないの！　冒険小説の名作に『不死鳥（フェニックス）を倒せ』（アダム・ホール／ハヤカワ・ミステリ文庫）っていう、映画にもなったやつがあるんだけど。砂漠に不時着しちゃった十数人の男女がどうにか脱出してくるっていう、名作中の名作。

　このくだりについて、Ｎ君はメールの中で、それは『不死鳥（フェニックス）を倒せ』ではなくて、『飛べフェニックス号』（トレーバー著）ではないかと書いている。おお、そうだ。砂漠に不時着した人間たちが奇想天外なアイディアで脱出するサバイバル冒険小説は、『不死鳥（フェニックス）を倒せ』ではなく、『飛べフェニックス号』だ。

　最初に翻訳が出たのは四十年ほど前、講談社ウィークエンドシリーズの一冊で（Ｎ君がメールで書いていたように、この叢書には、マクリーン『原子力潜水艦ドルフィン号』も入っていた）、映画のときの題名が「飛べ！　フェニックス」。数年前にリメイクされ、「フライト・オブ・フェニックス」の邦題で公開されたとはＮ君の情報である。彼は映画雑誌の編集部にいたので、映画には詳しい。

　大森望との対談のときには、フェニックスなんとかだよ、と曖昧な発言をし、それを編集部が調べ、『不死鳥（フェニックス）を倒せ』としてゲラを出したんですねたぶん。それを本来ならゲラの段階で厳しいチェックをしなければいけないのに、ふーんとそのままにしてしまったのである。だからこれは編集部の責任ではなく、全面的に私が悪い。

　アダム・ホールという著者名を見たときに、ヘンだなと思った記憶がある。そんな作者名ではなかったのだ。そのときに、待てよと調べればよかったのに、あとにしようとスルーして、そのまま忘れてしまったのだろう。

『不死鳥（フェニックス）を倒せ』は、私の記憶が正しければ、たぶんスパイ小説で、冒険小説ではない。絶対にこれではない、とどうしてそのときにチェックしなかったのか。しかも「冒険小説の名作中の名作」とまで、私は断言しているのだ。まったく恥ずかしい。この『飛べフェニックス号』については、『面白本ベスト１００』か『冒険小説ベスト１００』（どちらも本の雑誌社刊）のどちらかで紹介した記憶があるので、いまそれを調べようとしたら、本棚をいろいろ漁ってもなかなか見つからない。そうだ。あのときも、同じことをして見つからず、あとで調べようとしてそのまま忘れてしまったことを、たったいま思い出した。

　本に誤植はつきもので、珍しいわけではないが、ホントに恥ずかしい。この『読むのが怖い！　帰ってきた書評漫才〜激闘編』は、季刊誌「ＳＩＧＨＴ」連載の対談書評をまとめたもので、２００５年３月に出た『読むのが怖い！　２０００年代のエンタメ本２００冊徹底ガイド』に続く第２弾だが、出来上がった本を見て、えっ、これ、漫才だったのかよとびっくり。どうもそうらしいんですね。ま、いいんだけど。

　この本の出版を記念してトークショーが行われる。５月５日は７時からやなか往来堂書店にて、５月９日は６時半より神田三省堂書店にて。いま本が売れないと言われている中で、こういうマイナー本をとりあげてくれる書店が嬉しくて、バカ面をさらします。増刷が掛かれば誤植を直す機会にもなるから、出来れば売れてほしいのです。
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         <pubDate>Mon, 28 Apr 2008 18:37:07 +0900</pubDate>
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         <title>４月２５日（金）</title>
         <description>　知人の日記を読んでいたら、書評の一部を宣伝用のＰＯＰに使わしてもらいたいと版元の人間から電話がきた、というくだりがあった。どの部分ですかと尋ね、それをこれからＦＡＸしますと先方は言い、で、送られてきたＦＡＸを見て、問題もないのでＯＫのメールを出そうとしたら、ＦＡＸのどこにも先方のアドレスが記載されていなかったという日記である。電話を待たなければならないのはイヤだ、と知人は書いている。さっさとメールを出して、仕事に掛かりたいのに、絶対に来る電話を待っているのは気分的に落ちつかないと言うのである。

　こういうことはよくある。おそらく、そこにアドレスを書いてしまうと、お前のほうから連絡を寄越せ、と暗に催促していると誤解されるのが心配で、編集者は遠慮して書かないのではないかと思うのだが、彼は違う推理だ。

　おやっと思ったのは、この日記にすかさず某評論家がコメントを寄せていたことだ。この中身が凄かった。某社の文庫が重版に際して、解説の一部を帯に引用したいと編集者から電話がきたんだという。どの部分ですかと尋ね、じゃあＦＡＸしますという返事までは通常だが、それが全然来ない。来ないまま重版され、彼は書店でその現物を見て、引用部分をようやく知ったのだが、いまにいたるもその文庫は送られてこないという。

　その同時重版に、私が解説を書いた一冊も入っていたので、「北○おやぢも同じ目にあったのかしら」と彼は書いているのだが、私、その文庫解説を書いていたことを、初めて知りました。その程度なので、そういう連絡が来たことも、あるいは来なかったことも、そしてどうなったのかも、まったく覚えておりません。

　という話を書きたかったわけではない。こういうのを読むと、オレなんてもっとひどい目にあってるぜと書きたくなるのだ。ようするに、被害自慢である。

　つい先日、見知らぬ編集者からＦＡＸがきた。文庫解説の依頼である。すごいのはこの先だ。本をすでに発送したというのだ。えっ、発送ずみってどういうこと？　ＦＡＸの最後の一文にのけぞってしまった。

「お受けいただけない場合は、お手数ですが、同封の着払いの伝票でご返送いただけますようお願い申し上げます」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

　そちらでどうにでも処分してくれてかまわない、というならまだ理解できるが、返してくれというのが想像を絶している。送ってくれ、と頼んだわけではないのだ。先方が勝手に送ってきたのである。いくら着払いの伝票が同封されているからといって、それでいいというものではない。ちなみに、そのＦＡＸにもアドレスは記載されていなかった。

　久々の自慢である。どうだ！
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         <pubDate>Fri, 25 Apr 2008 10:24:44 +0900</pubDate>
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         <title>３月２６日（水）</title>
         <description>　知人のネット日記を読んでいたら、文庫解説を書いたのにその文庫を一冊しか送ってこない版元があると書いていた。怒っているというよりも不満というニュアンスだ。

　普通、本を出版すると「著者用」として何部かが版元から著者に贈呈される。その部数は出版社によって異なるが、10冊〜20冊くらい。無料なのはそれだけで、それ以外の部数を著者が必要とする場合は（たとえば、知り合いに寄贈したいという場合など）、版元から著者が買い取るのが通例である。

　文庫解説はその応用バージョンといっていい。著者ではないから10冊も15冊も送る必要はない。しかし一冊きりというのは愛想なしだと思うのかどうか、解説者に２冊郵送するケースが多い。それが一冊しか送ってこなかったので、知人は不満を書いたわけである。

　その程度のことで契約書を交わすわけではないから、二冊郵送はこの業界の慣習のようなもので、二冊でなければいけないというものではない。何とはなしに、いつの間にかそういうケースが圧倒的に多くなっているということだ。

　しかし私、実は二冊も送ってこなくてもいいと考えている。本が増えるだけではないか。ただでさえ本の収容に困っているのに、同じ本が二冊も送られてくるというのは、困るとまでは言わないが、少なくても歓迎すべき事態ではない。通常の献本は一冊だから、封を切って二冊入っていると、そうか、オレが解説を書いたんだと気づく効用はあるけれど、それくらいか。

　実際に二冊送られてきても、書棚に置いておくのは一冊だけだから、あと一冊は処分に困って知人に進呈するケースが多い。笹塚にいたときは、そういうのは一階に持っていったが、いまは遠く離れているのでわざわざ持っていくのも面倒だ。

　そうか。一冊して送ってこないと不満を述べた知人も、知り合いに進呈したいのに一冊しか送られてこないのでは友人に進呈することも出来ない、ということなのかも。

　私の個人的な希望を書けば、最初に一冊、一年後にもう一冊という分送をしてもらえると嬉しい。一年もたつと、本が見つけられなくなっているから、こういうふうにわけて送ってもらえるなら助かる。二年後のほうがもっと嬉しいし、十年後なら絶対に紛失しているから泣きたくなるほど嬉しい。ま、無理だろうけど。

　それよりも私の不満を書いておけば、ゲラ（もしくはプルーフ）を読んでから、版元のＰＲ誌に書評を書くことがあるが、その後にゲラから単行本になったあと、その単行本が送られてこないケースが時々あることだ。

　誤解されないように書いておけば、これも版元側が必ず送らなければならない、と決められているわけではない。著者でもないし、解説者でもない。ただ書評を書いただけの人間に、その本を無料で贈呈する義務は版元にない。

　だからこれも慣例の域を出ないことだけど、ゲラ（もしくはプルーフ）を読んで版元のＰＲ誌に書評を書いた人間には完成本を贈呈するという慣習がこの業界にはある。ようするに、お礼ですね。

　だから、送ってこなくてもいいのだ。今日からそのシステムは中止、ということでも一向にかまわない。買えばいいだけの話である。

　しかし、まだこの業界には慣習というものがあるから、せこい話だが、本が届くのを待っていたりする。で、えっ、来ないのかよ、と気がつくのである。書評を書いた側からすると、気にいったから書評を書いたのである。それなのにその本が自分の書棚にないのは淋しい。つまり二冊はいらないが、１冊は欲しいのである。たぶんそのときの担当者が本を送る手配を忘れただけなのだろうが、それをいちいち催促するのもなんだし、年に一度くらいしかないことだから、ま、いいかと思っているのである。</description>
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         <pubDate>Wed, 26 Mar 2008 10:12:24 +0900</pubDate>
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         <title>３月１８日（火）</title>
         <description>　禁煙生活を始めて、そろそろ１ヵ月になる。あれから１本も吸っていない。禁煙はもっと大変なものだと思っていたが、こんなに簡単なものであったのかと驚いている。辛いのは最初の数日だけだ。その数日はホントに辛いが、それを過ぎてしまえば、あとは嘘のように平気になる。ずいぶん前に禁煙を実施した杉江君から、なかなか辛いですから禁煙補助剤を買ってきたほうがいいですよ、とメールがきて、急いで「ニコレット」というニコチンガムを買いに行ったが、それも結局は買ったままで封も切っていない。
　最初に心配していたのは、いらいらして仕事にならないのではないか、ということだった。原稿につまると以前はそこで一服していたのだが、それが出来ないとなると、仕事が捗らないのではないか。そう考えていたのだが、全然ＯＫである。いまでも吸いたくなるのは酒を飲んだときだけ。これは無性に吸いたくなる。以前ならここで一服したよなというときに、することがないので手持ち無沙汰になり、仕方なくまたグラスを口に運ぶのである。つまり酒を飲むピッチが早くなる。だから酔うのが早い。違いはそれくらいか。
　現在は分煙社会だから競馬場でも喫煙コーナーはガラスで区切られている。そこを通りかかるたびに、煙草を吸っている人を見ることがあり、いいなあと思う。自分の健康のために禁煙したわけではないから、煙草を吸う人がいまでも羨ましいのだ。いつだったか町中の喫煙コーナーの近くを通りかかったら、紫煙が漂ってきて、思わずそこで足を止めたこともある。紫煙が甘いものだとは思ってもいなかった。すごくいいのだ。その甘い香りをいつまでも嗅いでいたい。
　ところが禁煙したと言うと、目の前で吸わなくなる人が少なくない。どんどん吸ってください、とは言うのだが、やはり遠慮するのだろうか。こないだは競馬友達と競馬場の帰りに居酒屋に入ったとき、「煙草を吸ってさ、オレの顔にふっとかけて」と言ったら笑われてしまった。
　ほんの時々、こんなに簡単に禁煙が出来るのなら、時々一本くらい吸ってもいいのではないか、と思うことがある。誰も見ていないんだしと部屋の中で思うこともあれば、居酒屋でグラスを傾けながら思うこともある。どうせすぐにやめられるのなら、一本くらいいいよなと思うのである。いや、吸わないけどね。</description>
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         <pubDate>Wed, 19 Mar 2008 12:39:52 +0900</pubDate>
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         <title>２月１９日（火）</title>
         <description>　今週の月曜から禁煙生活を開始した。ただいま３日目で、とっても辛い。事の起こりは日曜の深夜の電話だ。

　こんな時間に何だろうと思ったら、高校時代の友人で、酔っぱらっている。どうしたの、と尋ねると、翌日から入院すると言うのでびっくり。彼は大学で体育を教えている現役の教師なのだ。その体の鍛え方は本格的で、メタボ状態の私とは違って、いまでも筋肉質の体は引き締まっている。そういう彼がまさか癌になろうとは予想外。私が癌になっても驚かないが、彼が癌になるとは驚きだ。

　私には友達が少なく、小・中・高・大学を通じて、いまでも定期的に会っている級友は彼だけなのである。年に数回、彼から電話がきて飲む。もう四十年以上の付き合いだ。昨年秋には、彼の自宅の近くのスパに行った。台風が東京を直撃した日で、揺れる木々を見ながら静かにビールを飲んだことを思い出す。

　昔と違って、いまは癌になっても、必ずしもそれでたちまち生命が終わりになるということではなく、癌とともに生きるケースも少なくないという。だからたとえ手術した結果、彼が本当に癌であったとしても、それで彼の命がすぐさま終わりになるということを意味しない。その場合は、癌が再発しないように祈りながら、癌と折り合って生きていくということだ。いや、悪性なのか良性なのか、腫瘍を摘出してみないとまだわからないので、良性の可能性は残されているが、たとえそれが悪性であったとしても、まだ希望は残されているということだ。

「明日、入院するっていうのに酒を飲んでいいのかよ」と言うと、「だって酒はいかんという注意書きはないぞ。それに明日は入院するだけで、検査はその翌日だし」。酒を飲んだのも１年半ぶりということなので、すでに酔いがまわっているようだ。だから最後に、「お前、オレが死んだら煙草をやめるって約束しろ」と言ったのも、特に深い意味はないのだろう。酔っぱらいには逆らわないようにしているので「わかったよ」と電話を切ったけれど、そのあとで、はたと思った。

　友が死んだから禁煙する、ってのはイヤだ。その辛さを我慢するのは、友に生きていて欲しいからだ。それなら理解できる。友が死んでしまったら、もうどうでもいい。禁煙する必要もない。その瞬間、よし、いま、禁煙しよう、と思った。

　禁煙しようと思ったのは実は生涯二度目である。最初は長男が生まれたときだったが、口淋しさのあまり、キャンディ一袋を一日に空け、たちまち太ってしまったので、挫折。それ以来、試したこともない。はたして今回の禁煙はどこまで出来るやら。開始から３日目、ホントに辛い。私、そんなに意思強くないし、無理だよなあ、絶対だめだよなあ。</description>
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         <pubDate>Tue, 19 Feb 2008 18:42:07 +0900</pubDate>
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         <title>２月４日（月）</title>
         <description>　ハードディスクに入っている原稿を見ていたら、『私の死亡記事』（文春）が刊行されたときに某誌に書いた原稿が目にとまった。自分で自分の死亡記事を書いたらどうなるかという本を読んで、私も自分の死亡記事を書いてみたという原稿である。
　以下は、その死亡記事の全文である。



　今年の四月、上海の中央競馬場において死体で発見された日本人老人の身元が本の雑誌社の初代社長目黒考二氏とこのたび判明。日本大使館から遺族に連絡がきたものの、遺族が引き取りを拒否したため、本の雑誌社の杉江由次会長（７０歳）が現地に向かうことになった。氏は一九七六年に、作家椎名誠氏と書評誌「本の雑誌」を創刊。２００１年に退職し、しばらくはエッセイその他を各雑誌等に書いていたが、２０１２年に出奔。行方不明となっていた。氏は「本の雑誌」発行人の傍ら北上次郎名でミステリー評論などを書き、本名でエッセイ等を書いていたが、見るべきものはない。出奔とした理由として当時あげられていたのは、２００５年から書きはじめた『わが父』（マガジンハウス）と、同年から執筆を開始した『世界の家族』（筑摩書房）が不評であったことにショックを受けたためと噂されたが、その真意は不明。笹塚駅前の本社ビル１２階で、「行方不明になってから２７年もたってますから、まさか中国にいたとは想像外でした。困っていたのなら連絡を欲しかったです。何といってもわが社の創設者ですから、連絡さえくれればどんな援助もしたのにと思うと残念です」と杉江会長は語ったが、出奔の理由と引き取りを拒否した遺族の真意については言及を避けた。その間の事情について語ってくれたのは、新宿で貸しビル業を営む太田篤哉氏（９５歳）で、「これはあくまでも噂ですが、あの人は家庭を省みなかったんで、その罰が当たったんでしょうね。息子さんでも生きていればまた別なんでしょうが、孫の時代となるとね。それに椎名さんも木村さんももうとうの昔に亡くなっているから、相談できる人もいなかったんじゃないかなあ。我々の歳になると知り合いも少なくなっているから淋しいですよ」と、一代で財を成した新宿の貸しビル王は淋しく笑った。老人ホーム「らくらくえん」（町田市）に在住の沢野ひとし氏（９４歳）は、「競馬場で死ぬなんて目黒くんらしいねえ。あれ、知らないの？　彼は競馬の本を何冊も書いているんだよ。ペンネームは何と言ったかなあ。藤沢三郎とか四郎とか。あまり売れなかったらしいから、覚えている人もいないだろうけどね。ところでキミ、ぼくはいま新しい文学を書いているんだよ。どこで発表しようか考えているところだから、ぜひにと言うならキミのところでいいよ。あれ、どうして帰るの？　まだ話が終わってない！」とテーブルをどんと叩いた。


　これがそのときに書いた死亡記事の全文だが、ようするに私は、どうせ死ぬなら競馬場で死にたいと思っているのである。この考えは今も変わらない。そのときに握りしめている馬券の中身についてまで、そのときは書いているが、あまりセコイ馬券を買ったときには（これが結構少なくない）死にたくない、という考えも変化なし。あいつ、こんな馬券を買ってたのかよ、とは言われたくないのだ。

　では、どういう馬券を握りしめて死にたいのか、ということについて書き出すと長くなるので今回はやめておく。
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         <pubDate>Mon, 04 Feb 2008 11:16:18 +0900</pubDate>
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         <title>１月２８日（月）</title>
         <description>　読書会の次の司会進行役に考えていたのは、菊池仁だった。明治大学に入ったとき、最初から映画研究部に入ると決めていた私が、各サークルの勧誘の出店が並ぶ通りをまっすぐに進んでいくと、映研の出店に座っていたのが一級上の菊池仁である。つまり私の大学の先輩だ。しかもそれだけではない。

　それから四年後、一度就職した会社を４月３日の朝に辞め、もう一度大学に戻って聴講生となっていた私が、大学近くのサークルの溜まり場になっていた喫茶店で新聞を開くと、その求人欄に菊池仁がその前年勤めた社の募集広告が載っていて、あっ、先輩の会社だ、とすぐに、その喫茶店から菊池仁の会社に電話したことを思い出す。

「求人広告を見ましたよ」と言ったのは話のきっかけにすぎない。久しぶりで懐かしくなって電話しただけなのである。ところがそのとき、菊池仁は電話の向こうから、びっくりしたような声で、「お前、本気か」と言い、私のほうが驚いてしまった。彼は、私がその会社を受けるために電話してきたと思ったらしい。誤解されてるなと思ったが、「じゃあ、明日、社の近くの喫茶店まで来い」と言う菊池仁に何も言わなかったのは、久しぶりに先輩に会いたかったからで、誤解はそのときに解けばいいと思っていた。

　そうか。この話は『本の雑誌風雲録』に書いたな、とたったいま思い出したので、あとは簡単にすませることにする。その翌日、菊池仁に会いに銀座の喫茶店に行くと、先輩はスーツ姿のがっちりした男と一緒にあらわれ、それが椎名誠との初対面だったことも『本の雑誌風雲録』に書いた。ようするに、菊池仁は椎名の部下で、私の先輩なのである。菊池仁がその会社に入らなければ、私と椎名が知り合うこともなかったわけだ。

　読書会の司会進行役が、椎名誠→目黒考二→菊池仁と続いていくのは、つまり知り合いラインなのである。いいんじゃないかなあこれ、と思って提案し、四谷図書館が入っているビルが工事に入るということもあり、翌月から菊池仁司会のもとにまた場所を変えて、第三次読書会が始まったのである。

　どうしてその読書会の話を書いたのかというと、実は先日、久しぶりにその読書会に行ってきたからである。菊池仁が司会役になってから十数年、まだ続いているのである。読書会に行く気になったのは、菊池仁に会いたくなったからだ。この五年で彼とは三回しか会っていない。しかもそれがすべて、共通の知人の通夜である。

　つい先日、親友を亡くした友達が、「元気なうちに、もっと会っておけばよかったな」と酒場で呟いたことがずっと残っていて、突然菊池仁のことを思い出したのである。先輩とはいえ、ほぼ同世代だからどちらが先に逝くかわからないが、お互いが元気なうちにもっと会っておこうと考えたのだ。

　菊池仁は元気だった。読書会の会員も私の知っている古い会員がまだ多く、読書会を終えてから二次会、三次会と席を移して、おいしい酒を飲んだ。そのときに古い会員のＩさんから、読書会のこれまでのテキスト一覧を渡され、それを見たら私が勘違いしていたことが判明。椎名の講座が終了してから４ヵ月はまったくの自主活動をしていて、その間、私は参加していない。そうだったんですか。私は椎名からすぐに引き継いだつもりでいたのだが、そうではなかったのである。受講生たちが数カ月、彼女たちだけで自主活動していて、やっぱり司会進行役がいたほうがいいとの結論を出して、私に電話がきたようだ。　

　そのとき（１９８５年３月）の第一回のテキストが、マーガレット・ドラブル『碾臼』で、新宿に場を移して始まった男女混合の読者会の第１回（１９８６年１月）のテキストが、志水辰夫『背いて故郷』、最終回（１９９２年６月）のテキストが、スティーヴン・キング『ＩＴ』であった。つまり私が司会を担当していたのは８年間だった。10年以上やっていたつもりでいたのだが、８年間ですか。それから菊池仁になって16年。おやおや、先輩のほうがもうダブルスコアだ。いちばん最初の椎名が２年間なら、この読書会はもう26年続いていることになる。

　若い会員が少なく（28歳の会員もいるけれど）、40代以上の会員が圧倒的に多いのは、この読書会の将来を考えると、ふと不安になるが、よくここまで続いてきたものだと思う。毎月参加することはもうとても出来ないが、今回のように気まぐれで参加したいという時もあるだろうから、いつまでもこの読書会が続いていてほしい、と思うのである。</description>
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         <pubDate>Mon, 28 Jan 2008 11:05:01 +0900</pubDate>
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         <title>１月２５日（金）</title>
         <description>　ずいぶん昔、読書会をやっていたことがある。

　そもそものきっかけは椎名誠だ。東京郊外にある某ショッピングモールのカルチャースクールで、椎名が「本とよもやま話」の講座をやっていたのは、いまから２５年前のことである。テキストを決めて、それを読んできた会員に、椎名がその本についてあれこれ話すという講座だから読書会といっていい。二年ほど続いただろうか。大変評判の講座だったようだが、そのころの椎名は世界各地にとびまわって忙しい時期だったので、その講座は二年で終了。普通ならそれで終わりになるところだが、そのときの受講者の有志が、せっかくだからこの会をもっと続けていこうと話し合い、私に電話が掛かってきた。

　素人だけが集まって読書会をやるよりも、誰か司会進行役がいたほうがいいという判断だったらしい。椎名が講師をやっていた二年間に私は数度ゲストとして呼ばれていたので、「そうだ、目黒がいい」と受講者は私を目をつけたようだ。

　その某ショッピングモールのカルチャー講座の担当者と交渉し、ただで教室を貸してもらったのだから、行動力のあるお嬢さんたちだった。ようするに、もぐりの自主講座である。おそらく担当者の好意だったと思われるが、あるいは某ショッピングモールには内緒で教室を貸してくれたかもしれないので、ご迷惑をかけないように、その担当者のお名前もショッピングモールの名前もここに書かないことにする。

　それからしばらく、私は月に一度東京郊外のその街に通うことになった。大学時代の映画研究部の合評会方式を、その新生読書会に採用したが、それは、まずテキストについて何か一言ずつ全員が順番に発言し、そこから司会が問題点を引っ張りだしてきて、議論を促すというものだ。話題が途切れると、また司会がきっかけを提出し、場を盛り上げる。つまり私は、講師ではなく、文字通りの司会進行役である。

　当時、全員が二十代だったと思う。椎名誠の講座を受講していたのだから、熱心な椎名ファンではあるのだが、それと同時に本好きで、とにかく本について語りたいというお嬢さんたちだった。読書会が終わると、ショッピングモールの真ん前にあったレストランで十数人の会員と食事をして雑談という月例会は、私も楽しかった。というのは、私が絶賛した小説でも、いつも半分は意見がわかれるのである。全員が褒める小説はないし、全員がけなす小説もない。小説は多様な読み方が出来るのだということを、私はその読書会で教えられた。

　いくらなんでも、もぐりの自主講座がそう何年も続くわけもなく、一年後に他の場所に会場を探さなければならなくなったが、その最後の日、レストランにいた私に、カルチャースクールの担当者からバラの花束が届いたことを思い出す。ちなみにその担当者は男性だった。

　どうせ場所を移すなら、目黒の会社に近いほうがいいだろうと彼女たちが言ってくれて、その翌月からは四谷図書館内の教室が会場になった。申し込めば、安価で貸してくれるスペースがあったのである。当時は本の雑誌社が新宿にあったので、私には便利である。この機会に、男性会員も募集しようということになり、本の雑誌に告知を出すと集まったのが五十人。あ、そうか。書き忘れていた。椎名の講座は女性限定だったので、もぐりの自主講座を立ち上げたのは全員が女性だった。

　で、それから十数年、読書会のあとに池林房で打ち上げをするという月例会が続くことになった。本郷の旅館に一泊する夏期合宿というものもあり、退会する人もいれば新しく入ってくる人もいて、なかなか賑やかな読書会だった。会員同士で結婚したカップルもいれば、表に出ない恋のドラマも数々あったようだ。

　私の事情が変わらなければ、たぶんずっと続けていただろう。だが、極端に忙しくなって、月に一度の読書会に出席するのがだんだん困難になってきた。そこで、司会進行役を下りることになった。次の司会進行役を責任を持って紹介するとみなさんに約束して、下りたのは会社が笹塚に引っ越す前後だったと思う。

　もっと書きたいことがあるのだが、あまりに長くなってきたので、続きは来週に書く。
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         <pubDate>Fri, 25 Jan 2008 10:57:59 +0900</pubDate>
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         <title>１月１６日（水）</title>
         <description>　本の雑誌社に行くと、浜本が「改訂版が届いていますよ」と数枚の紙を差し出してきた。何なのよその改訂版って？　見ると、北海道の山下さんが、「北上次郎解説文庫リスト」の改訂版を作って、送ってくれたのだった。

　前回は、２００７年１月の須藤靖貴『押し出せ青春』（小学館文庫）までのリストだったが、今回は２００７年11月のコーディ・マクファイン『戦慄』（ヴィレッジブックス）まで。まあ10ヵ月もすれば、新しいものが増えるのは当然だから、それだけなら驚かないが、前回版でこぼれ落ちているものを埋めているので、びっくり。それを数えてみると、51点。そんなに落ちていたんですか。落ちていても数点だと思っていたのに。

　いつだったか飲み屋で、その前回版のリストを見た池上冬樹に、「絶対にもっと書いているよ」と言われたとき、そうかなあと思ったものだが、すまん。本当にもっと書いていた。１９７８年７月の、生島治郎『殺しの前に口笛を』（集英社文庫）から、２００７年11月のコーディ・マクファイン『戦慄』まで、その数は２２９点でした。30年間で書いたものであるから、１年に７・６冊だ。大森望とか香山二三郎に比べれば、これでも少ないほうだろう。

　ワープロを導入する前の最初の10年間に書いたものは、何ひとつ残っていないので、今回も、「えっ、これを書いていたの？」というものが少なくない。ドン・ペンドルトン『水曜日・謀略のシナリオ』（創元推理文庫）１９８４年、藤本義一『標的野郎』（光文社文庫）１９８５年、Ｊ・オールビュー『ランターン組織網』（創元推理文庫）１９８５年、勝目梓『処刑のライセンス』（光文社文庫）１９８５年、『けもの道に罠を張れ』（徳間文庫）１９８６年、の５点はまったく記憶にないが、いちばん驚いたのは、次の三作。　　　　　　　　　　　　　　　　　　

ギャビン・ライアル『拳銃を持つビーナス』（ハヤカワ文庫）１９９０年
クレイグ・トーマス『ウインターホーク』（扶桑社ミステリー）１９９０年
クレイグ・トーマス『ファイアフォックスダウン』（ハヤカワ文庫）１９９１年

　ギャビン・ライアルの解説を一度書いていたことも驚きだが、トーマスの解説を２度も書いていたとは、ショック。トーマスは私が偏愛する作家なのである。ミステリマガジンでやっている「新・世界ミステリ全集をたちあげる」という座談会でも、強く主張して１人１巻をもらった作家なのだ。どういうわけか、一度も解説を書く機会がなかったと思っていた。書いていたんです。

　トーマスについて、どういうふうに解説を書いたのか、読みたいなあと思いながら、京王線に乗って帰ってきたのである。


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         <pubDate>Wed, 16 Jan 2008 10:42:21 +0900</pubDate>
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