時々、自分があんまりにもちっぽけで、自分で自分に嫌気がさすことがある。
自分のちっぽけさに嫌気がさす自分、というのも、自意識過剰な女子高生みたいで、これまたうへっ、って思うのだけど。
全く、四十にもなって何やってんだかなぁ。
作家の佐藤愛子は自分に喝を入れる時に、「どうしたんだ、佐藤愛子!」みたいな感じで、自分で自分を叱咤する、と、何かのエッセイで読んだ記憶があるのだけれど、私も似たようなことをやってるなぁ。
「なぁにやってんだよ、ヨシダノブコ四十歳っ!」と、思わず心の中で言ってる時があるもの。
別に四十だからって、文字どおり惑わなくなったり、物わかりが良くなったり、とか、するわけではないんである。
ある意味では、二十代の頃より惑うことだってあるし、物わかりよく生きなれなかったりすることだって、ある。沢山、ある。
ただただ不器用に、自分を取り巻く世界と格闘していた二十代の頃は、何よりも、「他人」のことが気になっていた。
勿論、当時の私は、そんなことはおくびにも出さず、むしろ逆に、殊更のように「自分は自分、他人は他人」というポーズをとっていたように思う。
でもって、そんな自分のポーズと内面のギャップに、自分であっぷあっぷしていたのだ。
私が、年をとって良かった、と思うことの一つに、まんま自然体で、他人は他人、と思えるようになったことがあるのだが、これは、本当に、そう思う。
いつごろからそうなったのか、はよく分からないんだけど、ある時、ふ、と気がついたら、「他人からどう見えるか、思われるか?」ということを選択の基準にするんじゃなくって、「自分は本当はどうしたいのか?」を基準にするようになったのだ。
彼(もしくは彼女)がどう思うかなぁ、ではなくて、私はこう思う、ということに目が向くようになったのだ。
私はそのことで、ずいぶん楽になったのだけど、世の中には、何と言えばいいのかなぁ。他人を気にする、というのとはまたちょっと違うような気もするんだけど、誰かを、何かを基準にしなければ自分を確認できないタイプの人が、いる。
例えば、私は自分ちの貧乏ネタを原稿に書いたりしてるのだけど、「そんなの全然貧乏じゃないですよ。
ウチなんかもっと……」みたいなことを言う人がいるのだ。
そんな時は、あ、そうすか、お互い貧乏は辛うござんすねぇ、なんぞと思いつつ、ひとくさりその相手の貧乏話を聞かせていただいたりするのだが、どこかで、あぁ、何でこの人はそうやって「貧乏」すら比べようとしてしまうのかなぁ、と、気持の奥の方がぐったりしてしまうのだ。
でもって、そんなことを言う人に限って、本当の本当は、全然貧乏じゃなかったりするんである。だってさー、貧乏だったら何で車持ってるんだ!? 何でマイホーム購入したりできるんだ!?
何か、こうやって書くと、すんごい僻みクンみたいだなぁ。
だけど、はっきり言って私は、誰が車を何台持ってようが、マイホームだろうがなかろうがそれが私に関係したことじゃない限り、「へぇ、そうなんだ」としか思わない。私にとっては、空が青いのと同じ、単なる事実でしかないんだもの。
そういう意味では、私は他人の「自慢」を聞く方が好きだ。
「自慢すんなよー」とか突っ込みながら、でもそうやってストレートに自慢する人の方が、私は信じられる。「ねぇねぇ、自慢していい?」とにこにこ顔で言われると、「いいよぉ、存分に!」と、気持よく応じられる。
そうじゃなくって、一見グチに見せかけて、実は自慢、ということを、無意識にやっている人に対して、私が感じてしまう嫌悪感、が、私は自分で嫌なんである。
あぁ、何だかまどろっこしいなぁ。
要は、他人は他人だからどうだっていい、と思っているのにもかかわらず、無意識に、本能的にその手の相手に対して感じてしまう嫌悪感、が、私は恥ずかしいのだ。
そのことに気づくと、本当に、自分のちっぽけさ、を痛感してしまうのである。
無人島で一カ月修行して来ます、みたいな気持がふつふつと湧いてくるんである。
ちっぽけな自分が嫌になる、と書いたけど、実は私にとって、年をとるということは、自分のちっぽけさを、折にふれ自分で確認していく、ということでも、ある。確認、というよりも、思い知らされる、というほうが合ってるかな。
ちっぽけさを認識して、でもそのちっぽけさに絶望しないこと。
ちっぽけな自分を卑下するでもなく、そのことに開き直るでもなく、自分の身のほどをその都度その都度確認しつつ、それでも少しづつ前へ進むこと。
明日の自分が、今日よりも少しでもいい自分であることを信じること。
嫌気がさしても、私はこの私にしかなれないし、今さら性格を変えようとしたって、そりゃ無理だ。
無理をすれば、どこかに障る。
今のこの自分でやってくしかないのなら、その自分なりに、少しでも気分よく、機嫌よく、日々を送っていきたい。
その想いは、不惑を迎えて、日々強くなってきている。
もう人生の半分は生きてきた。
あっちでぶつかり、こっちで転がり、そこここを擦りむいたり、アザこさえたりしてきたけど、それでも、だからこそ今の私がある。
これからもぶつかったり、転がったりするかもしれないけれど、少なくとも受け身のレベルは上がってるはずだ。なら、もう、それでいいや、とどこかで思っている自分もいるのである。
開き直る、のとは微妙に違うんだけど、ね。
だけど、時々受け身の仕方を間違えて、うまく肘を庇ったつもりが、膝をがつんとぶつけてしまったりすることがある。
そんな時は、なまじ自分で受け身がとれた、と思っている分、ダメージが深かったりするのだ。
まだまだじゃん、私。思わずため息が出る。
でも、と私は思う。
こうやって、まだまだじゃん、自分、って思って生きてくのも、悪くないよなぁ、って。
楽天的に過ぎるかもしれないけど、でも、殊更悲観的になることもないわけだから、さ。
まだまだな自分にため息ついて、ちっぽけな自分に嫌気がさして、でも、明日はまた新しい一日が来るんだもん。
自分だって、新しくなるんだよ。