「できちゃった婚」という言葉が嫌いだ。
こういうことを書くと、すんごい時代錯誤だと思われるかもしれないけれど、そもそも「できちゃった婚」って、恥ずかしいことだったんじゃないの? と私は思っている。
昔は、そういうことは、結婚式の席上とかで親族の間で密やかな声で囁かれることであって(もしくは、親しくしている友人間で、とか)、本人が大っぴらにカミングアウトするようなことじゃなかったような気がする。
お式の前に、参列者全員に公然となっていて、しかも、そのことを肯定するような雰囲気、なんてのは、昔は考えられなかったと思う。
よしんば、そのことが公然となったとして、本人は勿論、花嫁の親御さんは、ちょっとだけ肩身を狭くしていた、と思うのだ。
それが、「できちゃった婚」という言葉ができたおかげで、世間への通りが良くなってしまって、そのことで、肩身を狭くする花嫁さんや、その親御さんなんていなくなってしまったように思う。
そりゃぁ、まぁ、「お恥ずかしいことで」なんてぐらいは言うかもしれないけれど、それはもう、ポーズみたいなもので、それよりも、「おめでたがダブル」ぐらいな気分が圧倒的に当たり前になっているような気がするのだ。
でも。
「できちゃった婚」って、一昔前までは、「ふしだら」って言われてたことじゃないの? どっちかといったら、「日陰の言葉」だったはずだ。
それが今や、お天道様の下、あっけらかんとまかり通る言葉になってしまっている。
誤解のないように書いておくと、私は「できちゃった婚」が良くない、と思っているわけではない。
「できちゃった婚」だろうが、「できちゃっても不婚」だろうが、それはあくまでもその当事者たちが選択することだし、それについては、外部でどうのこうの言うことではない。
大事なのは、その選択に自分で責任を持つことだ、と思う。
だから、「できちゃった婚」がその人にとって、ベストな選択ならそれはそれでOKだし、「できちゃっても不婚」だって、全然OKだ、と思っている。
ただ、私が何となく嫌なのは、「できちゃった婚」に対して、どことなく肩身を狭く思わない、その気持、なのだ。
そこには、何の奥ゆかしさも、ない。
その奥ゆかしさのなさ、が嫌なのだ。
「できちゃった婚」という言葉の持つ、身も蓋もない感じ、が嫌なのだ。
世の中は目まぐるしく移り変わっている。
「世間様」なんて言葉は、もう殆ど死に絶えつつある。「お天道様」なんて言葉にいたっては、草葉の陰に隠れてしまってるかもしれない。
でも、「世間様」「お天道様」って、私は大事な言葉だと思う。忘れちゃいけない言葉だと思う。
「世間体」というのは、それに縛られるのはつまらないことだと思う。だから、世間体を気にしない、というのは、ある意味で正しい。でも、「世間体」と「世間様」は違うと思うのだ?「世間様」の持つ、旧弊な価値観、倫理観というのは確かにうざい、と私も思う。
そのいい例が、「一人っ子は可哀想」とか「三歳児神話」とか、「おばあちゃんっ子は三文安い」だ(ちなみに、これは全部私に当てはまる)。
そんなのは、本当、ごめんなすって、みたいな感じで、そういう価値観は窮屈でこそあれ、ありがたくもなんともない。
だけど、そういう旧弊な部分以外での「世間様」というのは、実はすごく大事なことなんじゃないか、と、特に最近の私は思っている。
昔、うちの家の食卓は、父だけが常に一品多かった。父は毎晩晩酌をする人だったから、晩酌用の肴も入れれば、二品多かったことになる。
ごくごく小さい頃は、そのことを不思議とも何とも思わなかったけれど、思春期の真っ只中の「不機嫌な季節」の頃、私にはそのことがものすごく不公平に思えた。
何で、お父ちゃんだけ、おかずが多いわけ?
しかも、そんなにおかずが多いくせに、そのおかずは飲みながら食べてしまうので、父がご飯を食べる時は、お漬物、でご飯を食べるのだ。時にはあろうことか、そのお漬物で、お茶漬けにしてご飯を食べるのである。
後年、私自身が酒飲みになってから、こういう父の食べ方は、本当に納得のいくものだったのだけど、当時の私には、どうしても理解できなかった。
おかずの品数だけではない。例えば、お魚だとしたら、一番大きなのは、当然のように父の皿に並んだ。
そのことは、とてつもなく不公平なことのように思えたものだ。
だけど、今から思えば、あれはあれで良かったんだ、と思う。
父は我が家の家長だったのだし、家長はエラくていいのだ。
家長は、というよりも、もっと言うなら、「大人はエラくていい」と今の私は思っている。いや、もっと言えば、大人はエラくあるべきだ、と思う。そのために大人になるんだもの。
自分のやることなすこと全部、一人前扱いしてもらえず、「くっそう」と思っていたあの時期って、実はすごく大事なことだったと思う。いつの世も、「大人は分かってくれなく」て、だから、早く自分も大人になりたい、と思うのだ。そうして、大人になってから振り返ってみて、かつての自分の半人前さ、を思い知るのだ。そうして、自分も「分かってくれない大人」になるのだ。「分かってくれない大人」っていうのは、だから、ある意味で正しいと思う。
あ、話がズレちゃったかも。
私が言いたかったのは「できちゃった婚」という言葉がまかり通ることの底の底には、「ものわかりのいい大人」というのがあるような気がする、ってことなのだ。で、私は、実際自分が大人になってみて、「ものわかりのいい大人」である必要なんかない、と思っている、ということなのだ。
「世間様」「お天道様」に恥じないように、やせ我慢したり、無理をこらえたり、がんばったりすることって、大人だからできることだ、って思う。大人だからしなくちゃいけない、って思うんじゃなくって、大人だからできるんだ、って思った方が、ずっと楽しいじゃん。
人生を折り返した私の目標は、ガンコ親父ならぬ、ガンコばばあ、である。