「お子さん、可愛いでしょう」
出産以来、何度も繰り返されて来たこの言葉を耳にするたび、私は、何ともいいがたい居心地の悪さを感じてしまう。
その居心地の悪さ、をその場で口にするほどには子供でなくなった私は、「えぇ、勿論」とか、「そりゃぁ、もう」なんて答えるのだが、その後で決まって、自分自身に対して、少しだけ恥ずかしくなる。
小さな棘が、胸の奥でちくん、とする。
自分の子供を可愛い、と大きな声で言うことが、何故だか知らないけれど、私は恥ずかしい。
可愛くないわけではないし、家の中では、息子が寝静まった後、ダンナと「いや、可愛いもんだねぇ」なんて言ったりもするのだけど、誰かの前で、そのことを口にする、ということに、私はものずごく抵抗があるのだ。
何ていうんだろう、自分の子供を可愛いと思うのって、ものすごくプライベートなことだ、という気がするのである。譬えは悪いのだけど、エロ本愛好家が、公にエロ本愛好を口にしないのと、私にとっては、どこか似ているような気がする。
同時に、エロ本愛好を公言しているエロ本愛好家を、潔くていいなぁ、と思う私がいるのも事実で、だから自分の子供を可愛いと公言する人がいても、その人はその人でいい、と思う。
あ、断っておきますが、自分の子供を可愛いと公言する人、っていうのは、この場合は、水を向けられたら、という条件の下で、ということ。
こちらから誘い水を向けてもいないのに、いきなり、「自分の子供ラブ」を全開にしてしまう人、しかも、あんまり親しくもない間柄なのにもかかわらず(ある程度親しい間柄、なら分かる)、という人(そんな人入るの? と思うでしょ。でも、実は結構いたりするのだ)、同じ子を持つ親としても、私は理解できない。理解しようとも、あんまり思わない。
自分の子供を可愛いと思うのは、当たり前のことなんだけど、でも、それはやっぱり、「秘めやかな趣味」と同じ程度くらいでいいんじゃないかなぁ、と私は思っている。
自分の目には可愛くてたまらない存在だとしても、他人から見たら、「ただの子供」である。
「ただの子供」ならまだしも、「うるさい子供」だったり「小憎らしい子供」だったりするかもしれないのだ。
若い頃の私は、子供が嫌いだった。今だって、実はそんなに子供好きなほうではない。親戚の子供や友人の子供、は別にして、かつては泣きわめく幼児が通勤バスに同乗した時など、頭がキンキンして、頭痛が起きたほどなのだ。終点まで乗るはずのバスを途中で下りて、歩いたことも、ある。
世の中には、私の死んだ祖母をはじめ、「真性子供好き」とでもいうような人たちがいて、彼らにとって子供の泣き声というのが、かんに障るなんて、そんなことはあり得ないことらしかった。
事実、私はバスに同乗した子供の泣き声に辟易したことを祖母に話し、逆に、「だから、お前は……」と窘められたことがある。
「だって、うるさいじゃん」と言う私に、「そういうふうにしか感じられないお前は、可哀想だ」とまで言われたのだ。
「じゃぁ、お祖母ちゃんは全然うるさいと思わないわけ?」と言い返すと、「子供の泣き声が、何でうるさいんだ?」と逆に聞き返されてしまった。
こんなことを言うと、誤解されるかもしれないけれど、私が自分の息子を一番可愛いと思うのは、彼と離れて入る時、である。
目の前にいない時、が一番可愛い。薄情なようだけれど、でも、これが私の本音である。
自分の仕事をしていて、合間に、ふっ、と保育園での息子に思いを馳せる時、今頃はお昼寝の時間かなぁ、なんて、ほうっと思う時。洗濯物を取り込んで、畳んでいる時に、その服の小ささを感じる時。何となく胸の奥がぬくったくなるのだ。そのぬくったさ、が、私にとっての、可愛さ、だ。
で、そのぬくったさ、というのは、あくまでも私だけのもの、ダンナと共有できるのがせいぜいなくらいなもの、なのだ。
だから、ひっそりと、そのぬくったさを、自分だけで楽しんでいたい、と思うのだ。何だ、やっぱり「秘めやかな趣味」と同じじゃん。
あれは、私が幾つの時だったのかなぁ。町内会で日帰り子供バス遠足みたいなのがあって、私もそれに参加したのだ。
昔から乗り物酔いするたちの私は、ちょこんと窓際をキープして、窓越しに見送りの祖母を見ていた。
もう少しで発車、という時に、隣の家に住んでいたYちゃんが、彼女のお母さんと乗り込んで来た。
あらかた埋まっている席を見渡した彼女のお母さんは、私の隣が空いているのを見つけ、やって来た。
そうして、いきなり、「うちのYちゃん、バスに弱いから、こっちに座らせて」と言うなり、私の腕をぐい、と引いて立ち上がらせて、Yちゃんを窓際の、私が座っていた席に座らせたのだ。
Yちゃんは、何だか困ったような顔をしていたけれど、彼女のお母さんは、「ほら、これでいいでしょ」と、満足気だった。「私だって車酔いするもん」とは、その時の私は、言えなかった。
私は、窓の外の祖母に、目顔で事の次第を訴えたのだけど、祖母は首をふって、席に座りなさい、と促すだけだった。
発車真際に、Yちゃんのお母さんはバスを下りて行き、バスが発車するまで、手を振っていた。
私は、祖母がYちゃんのお母さんに何事か言ってくれることを期待したのだけど、祖母はただじっと私の方をみているばかりだった。
「ちゃんとしなさい」とその顔は言っていた。
バスが発車してしばらくして、Yちゃんが「ごめんね」と言った。
あぁ、あの時のことを、こうやって覚えている自分に、自分でげんなりしちゃうなぁ。
たかだか5歳だか6歳のだかの気持全部で、Yちゃんのお母さんを憎んだ私、がいるのだ。Yちゃんのお母さんは、恥ずかしい人だ、と思った私がいるのだ。
同時に、私は、たまらなくYちゃんのことが羨ましかった。
あぁ、Yちゃんはお母さんに全力で守られているんだなぁ、と。
私にもお母ちゃんがいたら、あぁやってくれるのかなぁ、と。お母ちゃんがいたら、ひょっとしたら、バスに乗り込んで来て、Yちゃんから席を奪い返してくれたかもしれないのに、と。
家に帰っても、遠足のことをあんまり話さない私に、祖母がぽつり、と言った。「Yちゃんのお母さん、みっともないことして。あぁいうのは、人間として恥ずかしいことだんだよ」と。
みっともないけど、でも、私は羨ましかった。
羨ましかったんだよ、お祖母ちゃん、と思ったけど、でもそのことを祖母には言えなかった。