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 愛する、の反対は、

 愛する、の反対は、憎む、ではない。
 好き、の反対は、嫌い、なんだけど、ね。このへんのニュアンスをうまく伝えられない自分がもどかしいなぁ。
 私は、愛することと憎むことってのは、対極にあることじゃなくって、根っこが同じところ、もしくは、とても似通った場所にあるように思っている。
 どちらも、相手に対する強い想い、であることに変わりはない。強く愛せる人は、強く憎める人、でもある、と思う。
 それは、私自身の体験から、そう思うだけなんですが。
 今でこそ、こうやって、自分で自分のことを認められるけれど、強く愛せる自分が、強く憎める自分でもある、と気づいた時、私は自分で自分がすごく嫌だった。
 憎む、って、ほれ、すごくネガティヴな感情でしょう。ダークな自分、みたいな。何か、自分がすごく性根の悪い人間みたいで、いたたまれなかったのだ。
 でも、どうやら、自分はそれまで自分が思っていたほどにはいいやつでも何でもなくて、実はどろどろぐっちゃぐちゃな汚い部分を持っているやつなんだ、と、気づいてしまったのだ。
 いや、その時に初めて気がついたわけじゃないんだよね、実は。
 自分の汚い部分には、薄々気がついていたのだけど、でも、それを直視するだけの胆力がなかったのだ。
 げー、私ってば、こんな嫌なやつだったのか、と知った時のショックったら、もう、穴があったら入りたいどころじゃなかったなぁ。
 五十年間眠ったままでいられる薬があったら、飲みたかったくらい、だ(五十年後には、でも、起きようと思っている辺りが、図太いんだけど)。

 私が、本当の意味で、自分の汚さに気がついたのは、母親との葛藤を通してのことだ。
 母に愛されたくて愛されたくて、でも、それが叶わなくて、でも叶わないと諦めるのが辛くて、私はずっと「被害者」ぶっていた。
 自分は捨てられたのだ、と。
 母が再婚して、子供を産んだこと、その子供が私と同性の女の子だったこと、も、今思えば大きかったんだろうなぁ。
 私は異父妹であるその子のことが、本当は羨ましくて羨ましくて、しょうがなかったんだと思う。
 でも、羨ましい、と思うのが悔しくて、「私に羨ましい思いをさせる」母が悪いのだ、と思っていたのだ。
 しかも、じゃぁ、ストレートに、母に対して憎悪を抱けばいいものを、「私のことなんか、愛してくれてないんでしょ」「私が悪いんでしょ」と、変に捻れた想いしかもてなかったのだ。
 私はこんなに愛しているのに、って。
 私はこんなに愛されたいのに、って。
 大嘘である。
 少なくとも、その当時の私は、母を本当のところでは、愛してなんぞいやしなかった。
 愛せるほど、母と時間を過ごせなかった。
 母を恋しいと思えるほど、私と母の間には、密な時間などなかった。
 私の心にあったのは、毋に対する怨嗟だった。
 母を憾んでいる自分、というのを認めたくなくて、私はずっとずっと逃げていたのだ。
 自分の親を憾むなんて、そんなことはしてはいけない、という気持も、どっかにあったんだろうなぁ。
 でも、だからといって、そのことを一生自分で自分にごまかしきれるものではなかったのだ。
 そのことに気づいた時は、しんどかったなぁ。いや、今だってまだ、自分の中でもちゃもちゃしたものはあるんだけど。
 それから、ずいぶん時間をかけて、私は私の気持と折り合いをつけていったように思う。
 その過程で、私は自分の嫌なところ、汚いところに気がついては落ち込み、気がついては落ち込み、そこから、少しづつはい上がってきたように思う。
 いや、今だって、嫌なところ、汚いところ、沢山あるんだけれど、でも、何て言うんだろう、それを無自覚に自分の身に託っているよりは、そういう部分もある自分なんだ、って、常に意識していたほうが、私自身は、楽だ。
 そう思っていると、少なくとも、何かあった時に誰かのせいにする、という嫌らしい方向に心が向かわずに済む。
 誰かのせいにする、というのが、どれだけ嫌らしいことなのか、どれだけ恥ずかしいことなのか、母に対する自分の気持に正直になった時、私が得たもので一番大きなことは、そのことを知ったことかもしれない。

 母は、私を愛していないわけではなかった、と思う。
 私も、母に対して、憎しみだけを感じていたわけではなかった、と思う。
 私は母から生まれたのだ。
 母は私を産んだのだ。
 何かもう、それだけでいいや、って思うことが、最近は、ある。
 その後、母と私の人生が離れて行ったのは、それは多分、そうなるようにしかならなかった、ただそれだけのことなのだ。
 誰が悪かったわけでも、誰のせいでもなく、たまたま母と私は、別々の道を歩くしかなかったのだ。
 考えてみれば、自分は自分の道を歩くことしかできないのだから、それでいいんだよな、と思う。

 重松清『流星ワゴン』に、こんなにも心揺さぶられてしまうのは、どうやったって理解し合えない父と息子がいて、でも、それでもそんな息子を丸ごと愛している、不器用ながらも、全身で愛している父親の姿があるからだ。
「幸せやらなんやら関係あるか! 親はのう、親子いうたらのう、すごいんじゃ、理屈で別れるようなもんと違うんじゃけん。別れようと思うても別れられんのが、親と子ぉなんじゃ! わかったか!」
 主人公の父親である「チュウさん」のこの言葉が、読後も今も、ずっと胸に残っている。

 愛すること、の反対は、憎むこと、ではない。
 愛すること、の反対は、忘れること、だ。
 母との葛藤でもがいていた時も、そして今も、私は母を忘れたことは、なかった。

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