そうだよなぁ、洗濯機だって、自分のこと洗濯して欲しいよな、と思った。
洗濯機に洗濯物を放り込んで、ふ、と洗濯機の汚れが目についたのだ。
我が家の洗濯機は、フタのところを、ぱたんと一回折りたたんで開けるようになっているのだけど、その、折りたたむ部分の溝の奥に、埃がたまっていたのだ。
つま楊枝を使って埃をかき出し、それから、他の部分の汚れもチェックしたら、これがまぁ、細かなところに、いつの間にか結構な汚れが溜まっていた。
つま楊枝と歯ブラシで、丁寧に埃と汚れを落としていった。
仕上げに、全体をきゅっきゅっと拭きあげて完成。
こ一時間ほど、夢中になってやっていた。
隅々の埃をとってもらった洗濯機が、気持良さそうに見えた。
で、思ったのだ。洗濯機だって、洗濯して欲しいんだよなぁ、って。
「ねぇ、ねぇ、洗濯機もさ、洗濯して欲しいんだよね。他のものを毎日毎日洗濯してても、自分のことは自分で洗濯できないんだもんねぇ」
何か、大事なことを発見したような気分になって、ダンナに思わず報告すると、いきなり、何を言い出すんだ、というような顔をされた。
洗濯機は、ものを洗うもの。それは当たり前。
でも、洗濯機だって、たまには自分を洗ってもらいたいんだよね。ねぇ、知ってた?
けげんな顔のダンナにおかまいなしにしゃべり続けていたら、ダンナは無言でスポーツ新聞に目を戻した。
私が言いたかったのは、洗濯機のことだけど、でも、洗濯機だけのことではない。
何て言うのかなぁ。
「当たり前」と思われていることの落とし穴、みたいなことについて、だ。
例えば、大人は泣かない、とか、男は人前で泣かない、とか、、そんなことについて、だ。
大人は泣かない、というよりも、大人は無闇に泣いちゃいけない、みたいな暗黙の了解が世の中には、ある。
悲しくても、辛くても、悔しくても、それをぐっと堪えるのが大人だ、みたいな。
でも、そうなんだろうか?
大人が泣かないのは当たり前、って、本当にそうなのかなぁ。
だとしたら、堪えた悲しさや、辛さや悔しさは、どこに行ってしまうんだろう。
そりゃ、本当に悲しいことや辛いことは、泣いたってどうしようもない。
泣いて、悲しさが減るわけじゃない。
でも、泣くことで、悲しんでいる自分、辛い自分、を、自分で受け入れられるんじゃないかなぁ、と私は思うのだ。受け入れやすくなるんじゃないのかなぁ、と。
だって、本当に悲しい時、辛い時には、言葉なんか出ないもの。その、出ない言葉の代わりに涙が出る、と思うのだ。
数年前、一人の映画監督が亡くなった。その監督は、ダンナが共に仕事をして、敬愛している人だった。
その日は深夜の撮影で、ダンナの携帯の電源は切られていたらしく、結局、他のスタッフの携帯に入った連絡で、ダンナは知ったらしい。
早朝、ダンナが帰って来るのを、私も起きて待っていた。
ガチャリ、と鍵音がしたので、玄関まで出てみると、ダンナが放心したように、突っ立っていた。
「○○監督が……」と、私が言うと、ダンナはその場にくずおれるように膝をついた。
肩が震えていた。
どのくらい、そうしていたんだっけかなぁ。
時折、鼻をすする音がして、しゃくりあげる声がした。
何か、声をかけよう、とは思わなかった。
かけるべき言葉など、見つからなかった。
静かに泣き続けるダンナの横で、私も声を出さずになくことしかできなかった。
彼がどういう想いで、撮影を続けたのか。すぐにでも、駆けつけたかっただろうに。
そうして、どういう想いで、早朝の電車に揺られて、家までの道を辿って来たのか。
家で泣いてくれてありがとう、と思った。
私の前で泣いてくれて、ありがとう、と。
その日、ダンナはそれから数時間仮眠をとった後、再び撮影現場に出かけて行った。
大人だから、淋しくない、とか、大人だから、我がままを言っちゃいけない、とか。
そういう、ごく当たり前のことって、でも本当はきっと当たり前じゃない。
当たり前のことにして、さらりと過ごしていくほうが楽だから。そのほうが傷つかないから。
江國香織『泣く大人』を書店で見かけた時、あ、いいタイトルだなぁ、と思った。そうだよ、大人だって泣くんだよ。
江國香織が、自身の日常を綴ったエッセイで、これがまぁ、見事に、江國香織にしか書けない、というか、彼女にしか書くのが許されないだろうなぁ、というような内容で、何だか私は読んでいて妙に嬉しかったりしたのだけど、本書で私が一番好きなのは、「あとがき」だ。
「実際の行為として泣くかどうかはともかく、大人というのは本質的に「泣く」生き物だと思います。「泣くことができる」と言った方が正確かもしれません」
この「あとがき」を読んだ時、私は自分がどうして彼女の作品を読むのか、その理由が分かったような気がした。
もうじき四歳になる息子は、以前から比べるとずっと泣かなくなった。
ついこないだまで、眠くなったといっては泣き、オシッコしたといっては泣き、お腹がすいたといっては泣いてたのに。
今はもう、眠かったら「眠い」と言うし、トイレにも一人で行くし、お腹がすいたからといって、泣くことなんてない。
それでも、まだ時々、言葉にできないもどかしさ、自分の語彙の不足を自分で持て余す時があって、そういう時には、言葉を探したあげくの果てに、混乱の果てに、泣き出してしまう。
息子をあやしながら、つい「もう赤ちゃんじゃないんだから、泣かないの」と言ってしまった自分に、はっ、とした。
「赤ちゃんじゃないと、泣いちゃだめなの?」と聞き返されて、何だか胸の奥がずきん、とした。
「ごめん。そうじゃないよ。泣きたい時には泣いていいんだよ。意味なく泣きたい時だってあるよね。何で泣いてるか、分からない時だって、あるよね」
私の言葉の意味は、多分、彼にはまだちゃんと伝わってはいないだろう。
でも、それでもいい。
私は、彼に「泣く大人」になって欲しい、と思っている。