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 私は34歳で結婚し

 私は34歳で結婚した。
 晩婚というほどではないが(そう思っているのは本人だけかもしれないけど)、決して早くはない。
 結婚してから丸5年になる。
 で、私は未だに、結婚生活というものに、心からは馴染めないでいる。
 馴染めない、というのはちょっと違うか、
 何て言うんだろう、すごく不思議な感じがするのだ。
 勿論、しょっちゅうそんなふうに感じているわけではないのだけど、それでも時々、一つ屋根の下にいる夫に対して、何だかとても不思議な感じを覚えてしまうことがあるのだ。
 あれ、どうしてこの人はここにいるんだろう。
 あれ、どうして私はここにいるんだろう。
 そんなことを、ふと思っている自分に気がついて、何だかおかしくなる。
 そして、何故だか分からないけれど、自分がそう思っている間は、幸せなのだ、と思う。
 すごく矛盾しているみたいだけれど、でも、そう思う。

 その不思議な感じ、というのは、夫に対して、だけではない。
 私には、三歳になる息子がいるのだが、時として、その息子にすら、そういう思いを抱くことが、ある。
 確かに、十月十日、自分の身の内に抱え、あんなに苦しかったお産を乗り越えて産んだ、自分の子供なのに。
 夜、息子の隣に身体を横たえる時に、何だかとても胸の奥がぎゅうっとするのは、愛しさは勿論なのだけど、「あぁ、私、本当にこの子を産んだんだよなぁ」
と、何だか自分で自分にびっくりもするから、なのである。
 毎日毎日過ぎて行く時間の中では、息子の成長なんて、時々、はっ、と気づく、といった感じだ。
 一年間で目覚ましく成長する0歳児と違って、二歳、三歳、と年を重ねるにつれ、成長が緩やかになっていくから(いや、本当は、彼にしてみれば、日々成長しているのだろうけれど)、親として、成長を実感できるのは、本当、そんな感じなのだ。
 春に着ていた服が、秋には着られなくなっていて、そこで初めて、そういえば、夏を越してから何だか背が伸びたよなぁ、と気づく、とか。
 そんな時、何だか、ふっ、と不思議な感じがするのだ。
 こないだまで、お腹の中にいたのに。
 うぅん、それまでは、どこにもいなかったのに。
 ここで、今、こうして、私の傍らに寄り添う小さな命、が、何だかとても不思議に思えるのだ。
 同時に、とても柔らかい気持になる。
 はるばる良く来たね、なんて。
 とはいえ、そんな甘やかなやんわりとした時間は、大抵は、目の前でエスカレートする息子のいたずらに、中断させられてしまうのだけれど。
 息子が、私のことも忘れるくらい夢中で積み木を積んでいるとか、覚え始めた文字を拾い読みしている背中なんかを見ている時も、やっぱり、ふっ、と感じることがある。
 あれ、この子はどうしてここにいるんだろう。
 あれ、私はどうしてここにいるんだろう。
 何だか馬鹿みたいに聞こえるかもしれないけれど、でも、本当、そう思うのだ。
 で、やっぱり、そう思うから、大丈夫なのだ、と思うのだ。
 何だ、私、幸せじゃん、と思うのだ。

 私の母は私を置いて家を出た。私を置いて、夫も自分の母も置いて、家を出た。
 そのことでは、ずいぶん悩んだり苦しんだりした私がいて、今でも、自分の心の奥でぷすぷすと燻ったりしている。
 それ故に、というのが正しいのか、それにもかかわらず、というのが正しいのか、私には分からない。
 ただ、私が時々、途方に暮れそうになるのは、もしかして、この私も、母のようになりはしまいか、ということだ。
 いつかは分からない。
 そうなるとは限らない。
 でも、万が一、私もいつか、母のように、自分の子供も夫も、全てを置いて行ってしまうことがありはしまいか。
 全てを断ち切ってしまう日が来ることがありはしまいか。 
 そんな時、私は呪文のように、自分に言い聞かせる。
 そんなことは、あるかもしれないし、ないかもしれない。
 絶対ない、ではない。
 あるかもしれないし、ないかもしれない、なのだ。
 あるかもしれないし、ないかもしれない。だったら、今悩むのはやめよう、って。
 何だか馬鹿みたいだなぁ。でも、この呪文は、私には良く効く。
  
 江國香織『いくつもの週末』は、著者の結婚生活を綴ったエッセイ集だ。
 彼女の結婚観というか、結婚生活観には、うなずくことも、そうじゃないこともあるのだけれど、どっちが多いか、といったらうなずくことのほうだ。
 私は、この本を読んだ時、あ、彼女も、自分の夫には、心底は馴染んでないんだろうなぁ、と思ったのだ。
 そして、彼女の場合は、その馴染まなさ加減も含めて、彼女の夫に対する愛なんだろうなぁ、と思ったのだ。
 その不器用さが、何だかすごく彼女の小説世界と重なっているように思えた。
 そのエッセイ集の中に、「よその女」というタイトルの一編がある。その出だしは、こうだ。
「よその女になりたい、と、ときどき思う。よその女というのはつまり、妻ではない女。」
「よその女」というのは、「夫とおなじ電車に乗りあわせる女とか」「おなじ会社の女」とか、「よその会社の女」とかだ。
「夫は、よその女をべつに好きではないだろう。でもいい子だと思っている。彼女はいつも感じがいいから。よその女だから。怒ったり泣いたり、夫の欠点を指摘したりしないから」
 そうか、私が時々感じていたことは、こういうこともあったのかもしれないなぁ、と思った。

「よその女になりたい」と思うのは、でも、やっぱりそれは今の自分が幸せだから、そう思うのだと思う。
 私が、夫に感じる、そして息子にも感じる不思議さ、は、それは言い換えれば、ある種の「新鮮さ」なのかもしれない。
 そして、それは、他人だからなのだ、と思う。
 夫も子供も、他人だから、だから不思議で新鮮だ。
 そのことが楽しい。
 そのことを楽しい、と思える今の自分が、私は自分で気にいっている。

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