失恋って、恋を失うって書くんだけど、でも、本当は「失人」なんだよね。
失って哀しいのは、恋じゃなくて、きっと、人なのだ。
一緒に並んで歩く人、一緒に映画を観る人、一緒にご飯を食べる人、一緒に笑う人、一緒に話す人。
そうやって、それまでは、当たり前のように一緒にいた人と、もう一緒にいられなくなる、その哀しさなんだと思う。
それでもって、そんな時に哀しさに輪をかけるのが、一緒にいた時の記憶、ってやつだ。
あの時の、あのあったかい紅茶のいい香り。ほろりと酔った頬に気持よかった夜風。偶然支えられた時の、あの腕の力強さに支えられた安心感。
その時は、ちっぽけで些細だったことが、そのちっぽけさ故に、胸に突き刺さる。
些細過ぎて、笑っちゃうようなことが、幸せの証明だったんだ、と気づく。
もう、帰ってこない時間。
もう、戻れない場所。
そんな記憶が、夜中ぐるぐると渦を巻いて、あっちへ転がってみても、こっちへ寝返ってみても、身の置き所のないしんどさ。
眠れないで、朝を迎えた時の、言いようのない絶望感。
心も身体も、どこかへ置き忘れたまま、身支度をして仕事に出かける時の、滑稽なまでのちぐはぐ感。
知り合いの女性は、彼と別れてから、各駅停車の電車にはしばらく乗れなかった、と、懐かしそうな目で言った。
「彼の住んでる駅に停車するのが、耐えられなかったんだよね」
仕事の都合で、どうしてもその駅で降りなければならなかった時は、余計なものを目に入れないように、ずうっと下を向いて早足で歩いたもん、と彼女は言って、ちょっと笑った。
「うっかり油断して、覚えのあるお店が目に入ったら、と思うと怖かったなぁ。その場から動けなくなっちゃうような気がしてさ」
今でも、その町が苦手? と聞いたら、
「もう、ぜーんぜん平気。後になって、よく考えたら、何であたしが、こそこそせにゃいかんのだ、って思ってさー」
彼女にとっての、各駅停車の駅、は、私にとってはある私鉄沿線だ。
仕事がらみの土地でもないので、多分、もう二度と行くことはないと思う。
行きたいとも、思わない。
行きたいとも思わない自分を、ちょっとだけ疎んじている。
一緒にご飯を食べたり、飲んだり、笑ったり、話たりする人間は、その人以外にもいるのに。
ただ一人、その人とはもう一緒にいられない、そのことだけが、重い重い事実となって、のしかかってくる。
たった一人を失っただけなのに、世界から閉め出されたように感じてしまう。
友人たちが開けてくれるドアも、呼びかけてくれるテーブルも目に入らない。
たった一人と会えなくなっただけなのに。
その瞬間は、十人の友人と交換したい、と思うくらいに、たった一人を切望する気持。
哀しくて、切なくて、そして、滑稽な、その気持。
望み過ぎて、欲ばり過ぎて、ないものねだり過ぎて、滑稽な、その気持。
結局ね、失恋って自分の問題なんだよね、きっと。
失ってしまった人に対する、自分の執着の問題。
ここで、やっかいなのは、心の片方には執着する自分がいるとして、もう片方には執着しちゃいけんない、と制する自分がいる、ってことなんだと思う。
忘れたいけど、忘れられない。
忘れられないけど、忘れたい。
自分が二つに引き裂かれちゃいそうで、気持がぐらぐらしちゃうんだと思う。
だったら、最初から、そんなに執着なんかしなきゃいいんだけどね。
でも、お互いに執着し合うのが、恋だともいえるわけで、さ。
で、問題のその執着ですが、これはもう、はっきり言って、薄れるのを待つしかない。
どんなに強い執着でも、その内に薄れてくるから。
全ての過去を記憶しておけないのと同様に、その執着だって、いつかは薄れる。
だから、逆に言えば、無理に断ち切ろうとしない方が、いい。
執着をねじ伏せようとするんじゃなくて、執着と手をつなぐ、って感じで。
そうすれば、少なくとも、執着し過ぎて、心がねじれてしまうことだけは、避けられるんじゃないかなぁ、と思う、執着している自分、を認めてあげることで、少なくとも、心が引き裂かれちゃうようなことは、避けられる、と思う。
江國香織『神様のボート』に出てくるヒロインは、執着を信念にまで昇華した女性だ。「一度出会ったら、人は人をうしなわない」
結婚後に出会ってしまった、運命の男。その男の娘を産み、婚家を去り、娘とともに根無し草のように漂い続けるヒロインは、そう信じている。
過去のただ一度の「骨ごと溶けるような恋」を、永遠の愛に変えて、彼女は、ただひたすら、彷徨い続ける。
いつかきっと、彼が迎えに来ることを信じている。
その執着の激しさ。その愛の深さ。
愛と狂気は背中合わせで、彼女の内に、ある。
二年前にこの本を読んだ時、私は、ほんの少し打ちのめされた。
「こんなに、誰かを愛せる?」と、ヒロインに、ひいては作者に問いかけられているような気がしたのだ。
私の答は「愛せません」だった。
二十代でこの本を読んでたら、きっと「私だって」と思えたような気がする。
激しく愛することが、愛だ、と信じていたから。
今の私には、こんな愛し方はできない。
そのことに気づいた時、ほんの少し切なかったのだ。
でも、それでいいような気がする。
今の私は、激しい愛とは無縁だし、ヒロインのような愛し方は、これからももうできないだろう。
激しく愛せるのは才能だ。
私にも、その才能がある、と誤解していた、あの二十代のがむしゃらだった季節が懐かしい気もするけれど、馬鹿だったなぁ、と笑い飛ばせる今の自分で良かった、と思う。