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 男と女は、本質的に

 男と女は、本質的には分かりあえないんじゃないかなぁ、と思う。いや、男と女に限らず、「本質的に分かりあっている」間柄、なんて、実はないんじゃないかなぁ、と思っている。
 えーっ、そんなことない、私と彼は(私とダンナは、でも可。僕と彼女は、僕とツマは、でもOK)、ちゃんと分かりあってるよ、という人は、はい、そのまま美しき誤解を疑うことなく、あなたの道を歩んでください。仲良きことは美しき哉。
 美しき誤解、なんて書くと嫌味に思えるかもしれないけれど、そんなことはない(あ、少しは、あるか)
。それで、二人の関係が上手くいっているなら、それが一番いいわけだから。
 本質的に分かりあえないんじゃないか、なんて書いてしまうと、私が、人間関係ってものを否定的に捉えているように思われるかもしれないけれど、それはちょっと違う。
 何て言うんだろ。分かりあえないから、といって、非観的になってるわけでもないし、諦めてるわけでもないし。
 ただ、分かりあえない、ってことを前提にした方が、人間関係がうまくいくような気がする、ということなのだ。特に、相手が、恋人や結婚相手といった、関係が密な場合ほど、分かりあえないってことをベースにした方がいい、と私は思っている。

 うちでは、基本的に家事は私がやる。ダンナに掃除機をかけてもらうことも、洗濯物を干してもらうこともあるけれど、基本的には、私の担当だ。
 炊事なんて、これはもう100%私の担当である。
 で、そのことに対して、基本的に私は不満を抱いてはいない。
 不満を抱いてはいないのだけど、それでも、時々、気持がくたっとすることは、ある。 それは、ダンナが当たり前のようにして、食べた皿を、私が洗い物をしてる最中の流しの横に置いたりする時、だ。
 食事時に私の入れたお茶を、ダンナが当たり前のようにして、受け取る時だ。
 この、「当たり前のように」というのが、ミソなのだ。
 まぁ、普段は気にならないんですが。
 でも、時々、どうにもこうにも、この、当たり前のような態度に、やりきれない違和感を抱えてしまうことがあるんである。
 そうかい、そうかい、私が皿を洗うのは、当たり前のことなのかい、と、妙に気持がねじれてしまうことがあるのだ。
 あー、疲れてるかも、とそんな時は思う。
 で、どうするか、というと、私はダンナにはっきりと言うことにしている。
 私が皿を洗うのは、当たり前のことじゃないよ、って。
 皿を洗うのは全然構わないし、苦じゃないし、あんたが洗うより私が洗った方が綺麗に決まってるんだから、それはそれでいいんだけど、そのことを「当たり前だ」と思われるのは、大変に心外である、と。
 せめて、「これ、お願い」くらい言って欲しい、と。
 言われたダンナにしてみれば、普段と同じことしてるのに、何で、今日だけ急にと思うかもしれない。
 でもね、今日だけ、じゃないんだな、これが。
 間隔が開いてるから、ダンナはそう感じるかもしれないけど、同じこと、前にも言ってるんである。
 ダンナが忘れてるだけ、なんである。
 ふぅ。
 多分、また同じことが起こって、同じこと言うんだろうなぁ、私、って思う。
 で、こういう時に、思うのだ。
 ま、いっか、分かりあえなくて、当たり前なんだから、と。 でも、だからこそ、その場、その場、で自分の気持を、相手にちゃんと伝えなきゃいけないんだ、とも私は思っている。
 だって、言わなきゃ、皿を洗うのが当たり前だと思われるのが嫌な私、というのは、ダンナには伝わらない。当たり前のように思っているダンナと、それが感にさわる私、というのは、永遠に変わらない。
 何で、当たり前だと思っちゃいけないんだ? というダンナと、当たり前だと思ってもらっちゃ困る、という私は、基本的に分かりあえてはいないのだ。
 でも、全てはそこからがスタートなんだよね。
 分かりあえていないからこそ、お互いが暮らしていく中で、相手に合わせてゆるやかに変わっていくわけだし、さ。
 あー、何か、回りっくどい書き方になっちゃったなぁ。
 えーっと、つまり、私が言いたいのは、分かりあえていないってことを前提にしてると、分かりあうために、努力するでしょ、ってことなのだ。歩み寄るじゃん、ってことなのだ。
 で、その努力っていうのが、密な人間関係であればあるほど、忘れがちになるんだけど、そうじゃなくって、実は 密な人間関係ほど、努力って大事じゃん、ということを言いたかったんである。

 巷でちょいと評判になっている岡田斗司夫『フロン 結婚生活・19の絶対法則』を読んだ。
 すごく乱暴に要約すると、結婚に幻想は持つな、もし結婚しても、夫がつかいものにならないのなら、さっさと家庭内リストラを図るべし、といったところになるのかなぁ。
 敢えて極論を述べることで、今までの価値観をいっぺんひっくり返し、男と女の関係、ひいては夫婦の関係を見直そう、という著者の視点は新鮮だとは思うんだけど、ね(しかも、本書の最大のオチは、著者自身がすでに家庭内リストラされて、離婚してる、ってとこだ)。
「家庭はやすらぎの場ではない」という発言が、男性の口から出た、というそのインパクトは大きいし、よくぞ言ってくれました、みたいな反響があるのも分かる。私だって、その箇所だけ抜き出して、ダンナに読ませたい気も、する。
 でも、ね。
 そりゃ、家庭はやすらぐ場だ、と一方的にのんべんだらり、とされちゃうのは何だかなぁ、だけど、お互いが、気持よくやすらぎを感じあえる場でありたい、って思うことは大事なことのような気がする。
 分かりあえないからこそ、迷いながらぶつかりながら進んで行くように、やすらぐ場だって、お互いに手探りで築きあげていけばいいんじゃないの。と思うのだ。

 と、そんなことを考えながら、洗濯物を干してたら、裏返しになったまんまのダンナの靴下が出てきた。
 くぅ、あいつってば、もう、何度言ったら分かるんだ、全く、と靴下を握りしめてぷんすかしてたら、ふいに何だかすごく可笑しくなって、声を出して笑ってしまった。
 靴下片手に怒ってる女の図、が頭に浮かんでしまったのだ。何だかそれは、すごく間抜けな図だった。
 靴下をひっくり返し、ぱんぱんとたたいて形を整えて干した。

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