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「えー、それヤバイじ

「えー、それヤバイじゃん」
「でしょー。でっさー、ばっくれてんのぉ。信じらんない」
 とある、昼下がり、本屋さんへ買い出しに行く電車の社内で、隣の女の子たちの会話が耳に入って来た。
「だって、そんなの、着信記録が証拠じゃん」
「だから、それ以来、記録消してるみたいでさー」
 ノースリーヴからにょきっと出ている二の腕が、まぶしいくらい若い。
 どうやら、話は、そのノースリーヴの彼女の彼、のことらしい。最近どうも素振りが怪しい、と思っていたところに、彼の携帯に見知らぬ女からの着信記録が多数入っていたのを、彼女が「見つけちゃった」らしいのだ。
 そう言えば、あの時だって、とか、そもそもはあのあたりから、とか、ひとしきり彼の行状について話はさらに熱を増していったのだが、彼女は、私の降りる駅の一つ手前で降りてしまって、その話はぷつんと断ち切られてしまった。
 年の頃は、二十代前半といった感じかなぁ。
 しかし、いつも思うんだけど、いまどきの(と書くと、いかにも自分がおばさんくさく感じられるのだけど、ま、いっか)若い女の子たちの声って、何であんなに大きいんだろうか。
 それと、電車の中なのに、何であんなに無防備にプライヴェートな話題を語っちゃう(話す、んじゃないのね。語る、の)んだろう。
 いや、つい耳に入ってしまう、こっちの側の問題なのかもしれないんだけど。
 いつだったか、あまりの「語り」に、たまらず本から顔を上げたら、向いに座っていた五十がらみのご婦人と目があってしまい、そのご婦人から思いきり「えぇ、えぇ、分かりますわよ、あなたのお気持ち」みたいな視線を受けて、内心すごく恥ずかしかったことがある。
 話がズレてしまった。
 彼女たちの話を聞いていて、思ったこと、を書きたかったんである。

 好きな人のことは何でも知りたい。
 この気持ち、すごく分かる。よく分かる。
 特に、つき合って日が浅かったりすると、もう、とにかく何でも、相手のことを知りたくて、相手の好きな映画や本、その他、どんな小さなことでも、自分も追体験したかったり、共有したかったりするんだよね。
 それって、すごく素敵なことだ、と思う。
 恋の始まりのあの、わくわくとした感じ。お互いを手探りで少しづつ知っていくことの楽しさ。
 何もかもが新鮮で、小さな発見があるたびに、また一つ相手に近づけた、というささやかな喜び。
 でも、そこには、小さな落とし穴がある。
 それは、相手のことが知りたい、と思うあまり「全部知りたい」と思ってしまうことだ。
 相手のことなら、何でも知りたい、というのはいい。でも、それは、「知ることのできる範囲で」だ。
 そして、「知ることのできる範囲」というのは、「相手が教えてくれる範囲で」ということだ。

 私がまだ大学生の頃だった。
 Jとはつき合い始めて半年くらいだった。
 ある時、Jの部屋で帰りを待っていた時、机に置かれたアドレス帳が目に入った。
 最初は気にも留めなかったのだが、Jを待っているうちに、つい、そのアドレス帳に手が伸びてしまったのだ。
 それでもって、そのアドレス帳を見てしまったんである。
 あぁ、大馬鹿だ、私。
 今でもこの時のことを思うと恥ずかしい。恥ずかしくて、忘れちゃいたいけれど、でも、これは忘れちゃいけないことだ、ということも分かっている。
 Jのアドレス帳は、見事に男名前で埋め尽くされていた。女名前は、私を含めて三つしかなかった。
 そのうちの一つは、彼の実家の市外局番で、彼の口にもよく名前がのぼる、幼なじみのものだった。
 もう一つの名前は、私が聞いたことも見たこともない名前だった。

 それからの私は、ずっとその女名前に囚われてしまったんである。
 で、彼が飲み会に行く、なんて言うと、「誰と飲むの?」なんて、根掘り葉掘りさぐりを入れちゃうようになっちゃったんである。
 会えない日には、誰と会ってたの? なんて。
 知らなくてもいいことを知ってしまったことで、私は、自分で自分を苦しめるような事態を招いてしまったのだ。
 それまでは、いい感じでつき合っていたJとの関係が、段々ぎくしゃくしてきて、私たちは別れた。
「何だか、息苦しい」
 Jはそう言って、去って胃行った。
 違うの、違うんだよ、J。Jのこと束縛したかったわけじゃないんだよ。
 ただ、私はJに聞きたかっただけなのだ。
 彼女は誰なの? って。
 でも、そんなことは聞けない。聞けるはずがない。
 Jと別れた時、私はさんざん泣いたけど、でもその涙は、別れの辛さよりも、自分の愚かさに対しての涙だったようにように思う。

 泉鏡花の短編に「外科室」というのがある。
 夫以外の男に心奪われた、ある高貴な身分の女性が、手術を受けるのに、麻酔を拒んで死んでいく。
 麻酔を受けると、無意識に、自分の心の罪を口にするかもしれないことを怖れたのである。
 鏡花独自の濃密なロマンを、ものすごく乱暴に要約してしまって、何だか後ろめたいのだが、まぁ、そういう話である。
 自分の心の秘密に関しては、命を賭しても守り切る、という、その激しさ。その激しさに裏打ちされた、相手への思慕。
 子娘だった私は、「秘密の重さ」みたいなものを、鏡花の「外科室」から教わったような気がする。

 どんなに好きでも、立ち入ってはいけないこと、ってある。
 どんなに愛しあっていたとしても、お互いに「秘密」は、あるかもしれない。
 いや、「秘密」があるからこそ、面白いんだってば、うん、きっと。
 お互いに「秘密」なんて一個もない、なんてカップル、今の私なら、逆に信じられない。
 全部知りたい、ってことは、ひょっとしたら、相手を信じてない、ってことかもしれないなぁ、などと、最近の私は思ったりしている。

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