「お前、本当に脳天気だよなー。悩みなんかあんのか」
「あたしにだって、悩みの一つや二つ、三つや四つ、五つや六つあるよ。あ、売るほどあるから、何だったら売ってあげようか? たっかいぞぉ~」
「あのなぁ、俺はそういうこと言ってんじゃねぇんだよ」
Tは焼酎のお湯割りを、ぐいと飲んで言った。1本目の焼酎が空きそうだったので、もう1本頼むことにした。
Tは昔からの飲み友達で、昔は飲むと二人ともべろべろになるまで飲んだ。
酔って喧嘩もしたし、迷惑をかけたりかけられたりして、それでも、もう私の人生の半分近くつきあっている。
そういえば、脳天気だ、と言われて、腹が立たなくなったのって、いつからだっけかなぁ。
昔はそんなこと言われたら、それこそ喧嘩沙汰になってたよなぁ、と思ったら、何だかおかしくなってしまい、一人でにやにやしてしまった。
「何だよ、にやにやして」
「いや、脳天気って言われても、腹立たなくなったなーって、思ってさ」
「年とったんじゃねぇか」
「そういうTだって、傍から見ればおっさんじゃん」
「うるせぇな、ほっとけ」
年をとって良かったなぁ、と思うことの一つに、男に対して、何の下心も持たずに一緒に飲めるようになった、ということがある。
はい、そうです。
二十代の頃の私は、はっきり言ってありました、下心。
というか、そういう下心持てないような相手とは、二人きりで飲んだりしなかった、と言うほうが正しいか。
幸か不幸か、私はアルコール耐性が高い人間なので、今よりも体力があった二十代は、もう、ぐいぐい飲んでいた。どんくらい飲んでいたか、というと、そりゃぁもう飲んでいた、としか言い様がないくらい飲んでいた。
なので、哀しいかな、そういう下心(どういう下心だ!?)があって一緒に飲んだ相手と、こちらの思惑通り(どういう思惑だ!?)にコトが運ぶということはまずなかったのだけど、それはそれ、そもそもそういう下心をもつくらい、憎からず思っている相手である。
で、相手も相手で、二人きりで飲むのをOKしてくれるくらいであるから、基本的には私に対して、好意とまではまだいかぬにしても、興味は持ってくれていた、と思うのだ。図々しいのを承知で言わせてもらえば、少しは好みかなぁ、などと思っていてくれてた、と思うのだ。いや、そう思いたい、思わせてください。
が、蓋を開けてみれば、その頃の私は「ただの大酒飲み」であった。気がつくと二人ともがっはっはと笑って、空になった一升瓶がごろんごろんしてる、なんてことばっかりだったんである。
いや、それはそれでいいんだけどね。
でも、自分にそういう下心があった、ということは、自分が一番よく知っているわけで、一番電車に揺られながら、その相手が気持ちのいい人であればあるほど、その下心が恥ずかしくて、明けてゆく空に、自分の卑しさが笑われてるような、何とも情けない気になったりもしたのだった。
「あのさぁ、T、ちょっと聞いていい?」
「何だよ」
「Tと初めて飲んだ時のこと、憶えてる?」
「そりゃ、憶えてるよ、お前、強烈だったし」
「なに、そんなにあたしが可愛かったってか?」
「なぁに言ってんだか、このおばさんは」
「じゃぁ、何よ」
「いい店があるから、ってお前が連れてった店、立ち飲みだっただろ。あれでまずびっくりしたね」
「でも、あたしたちが飲んだのは、ちゃんと2階の座敷だったじゃん」
「そりゃそうだけど。そこでお前、自分が何したか憶えてるか?」
「何かしたっけ?」
「いきなり、おじさん、あたし冷やで、って日本酒頼んだだろ」
「そうだっけ」
「そうだっけ、って、そうだよ。でもって、日本酒とぐい飲みを持って来たおじさんに、あ、これじゃなくってコップを持って来てください、って言ったんだぞ。コップだぞ、コップ。日本酒でコップ酒。俺、そんな女初めて見たぞ」
「あぁ、思い出した、あのぐい飲みって、中が渦巻き模様だったじゃん、あれで飲んでると目が回るからさー」
「俺、帰ろうかって思ったもん」
「良かったねー、あん時帰らないで」
「帰ってた方が良かったよ」
Tは、グラスの中の梅干しを箸でつつきながら言った。
「あのさぁ、あの時って、初めて飲んだ時のことだけどさ、T、あたしに下心あった?」
「いきなり、何だよ」
「いや、ちょっと知りたいな、と思って」
「本当、お前、おばさんになったんまぁ。そんなこと普通聞かないぞ」
そう言いながら、Tはちょっと真面目な顔になって、焼酎をひと口飲んだ。そして、少しだけ黙った後で、言った。
「そりゃ、あったさ」
「でしょー」
「あたし冷やで、って言うまでは、な」
言った後で、Tがくくくっ、と笑いだし、私も笑ってしまった。
「ねぇ、もし、あの時、私が酔いつぶれてたらどうしてた?」
「速攻で置いて帰る」
間髪おかずにTが答えて、私は吹き出してしまった。言った本人も、笑い出していた。
「下心ねぇ。なくなったよねー」と言うと、Tが「俺はまだまだあるぞ」と言い、「お前なんかにゃ、もうもったいなくって使えないけどな」と言った。
「今なら、もれなく三歳児もついてきやすぜ、だんな」と言うと、「慎んでご辞退いたします」と言ってまた笑った。
もう、下心のストックがなくなった私の分まで、Tには、下心全開で、これからも行って欲しいなぁ、とも思う。
ぽっかり空いた表札の空欄は、その下心でがんがん埋めればいいよ。玉砕した下心は、その都度飲んで笑い飛ばしてあげるから、さ。
面と向かって言うのは照れくさくて言えなかったけど、Tは昔よりも今のほうが、ずっとずっといい男だよ。
Tの乗ったタクシーが見えなくなるまで、私はぶんぶんと手を振っていた。