あぁ、私もあんな目をしてたのかもしれない、と思ったことがある。
去年のクリスマス前後のころだった。
保育園のお迎え時間が来たので、家を出ようとドアを開けると、玄関の前の植え込みのところに、ぼおっと腰かけてる二十代半ばくらいの女の子がいた。
驚いた私が、「きゃっ」と声を上げても、彼女はぴくともしなかった。目だけをエレベーターホールに向けたまま、そのまま動こうともしなかった。
何だ、何だ? どうしたんだ? と思いつつ、その場はそのまま保育園へと向かった。 保育園へお迎えに行ったその足で、かかりつけの耳鼻科をまわってから帰宅すると、彼女はもういなかった。
ひと足先に帰っていたダンナに尋ねると、
「あ、俺が帰って来た時はまだいたよ」
まだいたよ、って、じゃぁ、あれから1時間以上もいたわけだ。
この冬の、こんな寒い日に。たった一人で。
その時、私はほぼ確信した。
彼女は、彼を待っていたんだ、と。
この建物に住む、彼を待っていたんだ、と。
彼女がその後、何回やって来たのかは分からない。
私が見かけただけでも3~4回はあったから、少なくとも、それ以上は来ていたはずだ、と思う。
年が明けてからも、1~2回見かけた。
その時は、マンションの通りを隔てた向い側に佇んでいた。
見かけるたびに、彼女が少しづつ荒んでいってるのが、傍目にも分かった。
新しい年、新しい世紀を迎えても、彼女の心はどこか遠くに行ったままのようだった。
ある夜、久しぶりに外で飲んで帰って来た私は、だだだだっと階段から走り降りて来た人と、すれ違いざまぶつかってしまった。
ふっ、と振り返ると、彼女だった。
私が思わず「あっ」とあげた声にはじかれたように、彼女が、ぴくり、としたのが分かった。
一瞬だけ目が合った。
怯えたような目をしていた。
その様子があんまり切なかったので、私は不用意に目を合わせてしまった自分を恥じた。
その夜を境に、彼女は現れなくなった。
少なくとも、私が彼女を見かけることはなくなった。
彼女の名前すら私は知らないし、これからも恐らく知ることはないだろうけど、あの時の彼女の目はちょっと忘れられない。
何故なら、ずいぶん昔、私も、寒い寒い日に、たった一人で、見知らぬ町で、ただただ男を待っていたことがあるからだった。
もう終わってしまった恋なのに、何故その恋が終わってしまったのか、一番よく知っているのは自分なのに、それでも諦めきれなくて。
頭では分かっていても、身体が理解できなくて、眠れない夜を何度も過ごして。
くたくたに疲れた心と身体が向かったのは、別れた男のすむ町だった。
川を隔てて彼の部屋が見える、その河川敷の、ふきっさらしに、ただただ立ちつくしていたのは、私だったのだ。
あの部屋に灯りがともったら、そうしたら帰ろう、
もう二度と私が招かれることはない、あの部屋に、灯りがともるまで、と意味なくそう思った。
寒い寒い日だった。
どのくらい、そうしていたんだっけかなぁ。
足は疲れてくるし、何より身体が芯まで冷えて来ていた。それでも、目だけには力を込めて、私は向こう岸を見つめていたような気がする。
すると、突然、本当に突然、何もかもが馬鹿らしくなってしまったんである。
あーあ、あたし、何してるだろ、こんなとこで。こんな時間に。馬っ鹿みたい。
まるで、憑物がとれたみたいだった。身体が冷えきっていて、あ、トイレに行きたい、と思った。
山本文緒『恋愛中毒』の主人公は、文字通り、恋愛に中毒になってしまう女だ。中毒だからやめられない
。だから、半端じゃなく相手に執着する。執着する自分を自覚しつつ、執着せずにはいられないのだ。
その傷ましさ。その浅ましさ。
どっちも、私には分かるような気がする。
あの、寒い寒い日に、向こう岸を見つめて、ただただ佇んでいた私は、ひょっとしたら、今こうしている
この時に、彼が駆け寄って抱きしめてくれるかもしれない、という奇跡を期待してはいなかったか。
そうして、もしも、もしもそういう奇跡が起こったなら、もう一度やり直せるかもしれない、とは思っていなかったか。
あの、ふきっさらしで過ごした時間は、そんな奇跡など起こるはずなどないのだ、もう一度やり直せるなんてことはないのだ、と、自分の中で確認していた時間だったのかもしれない。
あの時の、拍子抜けしてしまうくらい、突然にやって来た、「あぁ、もう、私ってば何やってんだろ」っていう、あの感じ。
あれって、ひょっとしたら、中毒者が、禁断症状を脱した時のような、そんなすこんとした感じに似ていたのかもしれない。
愛しすぎるのは辛い。でもね、こればっかりは最初からブレーキを踏んでるわけにもいかないからね。気がついたら、愛しすぎちゃって、苦しい思いをすることもあるかもしれない。
でも、と私は思う。
そうやって、何度か苦しい思いを重ねるうちに、何となく分かってくるもんだよ、って。
愛することのさじ加減、みたいなことが、さ。
だから、大丈夫。
あの、うちのマンションの前に佇んでいた彼女を、あれから一度だけ見かけた。
商店街ですれ違いざま、一瞬だけだったけど。
ぼさぼさだった髪の毛は、きっちりと結ばれていて、うつむき加減だった背中が、しゃんと伸びていた。
あぁ、良かった、と思った。何だか嬉しかった。
自転車のペダルをぐいんと漕いで、遠回りして公園の桜を見て帰った。