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「大丈夫、君は強いから」

別れ際、彼が言った言葉だった。
 好きだった。大好きだった。同じふうに前を見て、ずっと一緒に歩いて行ける、と思っていた。
 でも、そう思っていたのは私だけだったのだ。彼が並んで歩きたかったのは、私じゃなかった。
 若い頃の私は、相手のことを振り回すことしかできなくて、相手が息せききらせていたことには気づきもしなくて、だから、私にとって、別れはいつも突然だった。相手にしてみれば、頑張って頑張って、それでもやっぱり、もう、ちょっとこりゃ無理だ、ってとこまで精一杯頑張った挙げ句のことだったんだ、と分かるようになったのは、ずっとずっと後になってからだった。
 突然、空から降って来たみたいな別れに、私はおどおどし、混乱し、途方に暮れた。
「もう一度、話し合ってみよう」と、何度も手を変え、品を変え、迫ってもみた。それが、さらに相手を振り回しているのだ、と気づきもしないで。
 目の前から彼がいなくなる、その事実だけが、私を怯えさせた。明日からは独りぼっちなんだという、そのことが何よりも耐えがたかった。
 頭では、もう前のようには戻れないんだ、と分かってはいても、それを受け入れてしまうことが怖かった。
 自分も相手もくたくたになった。
「じゃぁ、私は誰とご飯を食べればいいわけ?」
 何言ってんだかなー。
 そんな、子供のだだこねのようなことを口にした自分を、今では笑い話にできるけど、その時は真剣にそう思っていた。私は誰と映画を観に行けばいわけ? 私は誰と買い物に行けばいいわけ?私は誰と…………。
 ぐじぐじと続く私の未練を、彼も持て余していたし、私はもっと持て余していた。そして、最後の最後、彼が言ったのだ。
「大丈夫、君は強いから」と。
 それは、魔法のような言葉だった。
 そうか、私は強いのか。じゃぁ、こんなにいつまでもメソメソしてちゃいけないんだ。私は強いんだから、私は強いんだから。
 自分に言い聞かせるようにして過ごした。心がうつむきそうになると、私は強いんだ、強いんだ、そう呪文のように心の中でつぶやいた。
 指がすっかり憶えてしまっていた彼の電話番号を押しそうになる時も、彼と待ち合わせに使った店の前を通る時も、私は強いんだ、と自分に言い聞かせていた。

 ある時、ふとテレビをつけたら、「思い出の一曲」みたいな、懐メロ番組がかかっていた。晩ご飯をたべながら、BGM代わりにつけていたら、水前寺清子の「365歩のマーチ」が流れてきた。その歌詞のテロップを見ていたら、自分でも訳が分からないまま、涙が流れてきた。体の中の涙のスイッチみたいなのが、急に作動したかのようだった。
「幸せは歩いてこない だから歩いていくんだね」
 この言葉を見た瞬間、私は泣き出していたのである。
「ワン、トゥ、ワン、トウ」なんてとこでは、もう、声を上げておんおん泣いていた。
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら。テーブルの足を握り締めて、一人きりで。
 歌が終わっても、しばらく泣いていた。泣きながら、そっか、私は泣きたかったんだ、って気がついた。そんなに泣いたのは久しぶりだった。
 泣きながら、そんな自分がおかしくなって、笑ってしまった。笑っても笑っても、涙は後から後から出てきた。
 私は強くない。「365歩のマーチ」の歌詞で泣きだしちゃうくらいのへなちょこだ。そうだよ、強くなんてなかった。無理してたんだ、ずっと。我慢してたんだ、ずっと。
 強いんだから、大丈夫、なんて言われて、だから、逆にどこにも逃げ場がなかった。どこにも行けなかった。
 私は強くない。だから、歩いて行かなきゃ。三歩進んで二歩下がってもいいじゃん、一歩は進んでいるんだから。だから、歩いて行かなきゃ。

 ずるずるの鼻をかんで、涙を拭いて、よしっ、と思った。何が、よしっ、なのかわからなかったけど、とにかく、よしっ、と思った。
 冷蔵庫から缶ビールを出して飲んだ。冷たく冷えていたそのビールを、ゆっくりと味わって飲んだ。久しぶりに、美味しい、と思った。

Hさんは、二十歳の頃から二十年近く一緒に暮らしていた人と、一年前に別れていた。相手に、別の女の人ができたのが原因だった。きちんと別れるまで、二年近くごちゃごちゃしたそうだ。
 やり直そうと彼と二人で引っ越してみたり、彼だけが別に部屋を借りたり、と、それはただ聞いてるだけでも、しんどそうな日々だった。
「で、結局はこうなったんだけどね」と、その時はもう、さばさばした口調で話すHさんに、私は聞いてみた。
「最後の最後はどうだったの?」
「いやぁ、もう、最後はあれよ、お決まりのセリフよ」
「君は強いから大丈夫、ってやつ?」
 Hさんはワインを一口飲んでから言った。
「君は一人でも生きていける人だけど、彼女は一人では生きていけないから、って」
「出たぁ、お約束のセリフだぁ!」
 Hさんと私はひとしきり笑った。
 やがて、Hさんがぽつりと言った。「残酷な言葉だよねー」
 うん、うん、と私は頷いた。
「何だか、365歩のマーチを歌いたくなっちゃったなぁ」と私が言うと、Hさんが、? という顔で見た。

 誰だって、恋の終わりは辛い。できれば経験したくない。でも、終わりが来ちゃったらしょうがない。うん、しょうがないんだよ、もう、元には戻れない。どんなに言葉を尽くそうと、事実は一つだけ。あなたは私を選ばなかった。残酷だけど、でもそれが事実なのだ。

 だから、せめてそれ以上傷つけないで欲しい。「君は強いから」「一人でも大丈夫だから」なんて言わないで欲しい。どうせ捨てるなら、潔く捨てて欲しい。じゃなきゃ、誰を恨んでいいのか、分からなくなる。誰を憎めばいいのか、分からなくなる。そして、自分ばかりを責めてしまう。
 誰を恨むべきでも憎むべきでもない、と、なるようにしかならなかっただけなのだ、と自分で気がつくまで、せめて去って行ったあなたを恨ませて欲しい。何も言わず、恨まれて欲しい。それが、せめてもの思いやりってものだ。
 別に、死ぬまで恨むってんじゃないんだから、さ。

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