長い間、私はそう思ってきた。
男の人を好きになる条件というか、要素、きっかけに、顔の善し悪しというのが、私には全然関係なかった。背の高さも関係なかった。体型も関係なかった。
じゃぁ、何が決め手なのだ? と聞かれたら、今の私なら迷わずためらわず、「人品!」と即答するのだが、二十代の頃の私は胸を張って「仕事に決まってるじゃん!」と、答えていたのである。
そこには、ふん、私は男を外見で選んだりしてないんだからね、もっともっと深いところで、男の良さが分かってるんだもんね、という自負があったのだ。
私が熱を上げるのは、カメラマンの卵だったり、売れないアーティストだったり、自称詩人だったりした。何やら高尚な哲学を探究する大学院生、っていうのもいた。あんまり高尚すぎて、私には全然理解できなかったのだけど、「とにかく凄いことを研究している」ことだけは分かって、私はぽーっとなってしまったのだった。
カメラマンの卵は、すごく上昇志向の強い男で、最初のうちはその上昇志向ですら、「男らしいなぁ」などと頼もしかったのだが、そのうち段々、「オレは人とは違うんだ」という、彼の自意識が余りにも強すぎて、嫌になってしまった。
売れないアーティストは、彼のアートを分かってあげられるのは私だけだ、と思っていたのだが、そう思う女が私以外にもぞろぞろいることが分かって、私はイチ抜けた。
自称詩人は、世をはかなんでばかりいたので、ある日、急にその女々しさが耐えられなくなって会うことをやめた。
研究に没頭する大学院生は、体と心を壊して、郷里に帰った。
今の私なら分かる。
カメラマンの卵の彼は、不安だったのだ、と。未来の自分が見えなくて、でも、その夢を追い続けるためには「自分は人とは違うんだ」と言い聞かせ続けていなければ、気持ちがぐらついてしまうほど、不安でしょうがなかったのだ、と。
売れないアーティストは、世間に認められない分を、自分をとりまく女たちに認めてもらうことで補っていたのだ、と。
自称詩人は、一緒に世をはかなんで欲しかったのではなく、世をはかなむ自分の気持ちを、誰かに受け止めて欲しかったのだ、と。
大学院生は、きっと、研究することがいつしか苦痛になっていて、それでも研究を続けることでしか、自分を保てなかったんだろうな、と。
男は顔じゃない、仕事だ! などと、いっぱしの女を気取っていただけの当時の私には、そんな相手の気持に気がつくことはできなかった。
でも、それよりも何よりも恥ずかしいのは、カメラマンやアーティストが、普通のサラリーマンよりも、クリエィティブでカッコいいと思っていた、自分の心根だ。無意識に、職業で男を選別していた自分の卑しさだ。そんな嫌らしいブランド意識に、身震いしそうになる。若かったんだなー、というより、もう、単純に馬鹿だったんだなー、と思う。
私が男の顔について認識を改めたのは、嫌な自分、弱い自分を認められるようになってからだった。嫌な自分、弱い自分を認めたら、相手の弱い部分もカッコ悪い部分も、全部ひっくるめてOKと思えるようになったんである。そうなって初めて、本当に、男の顔、というものが、見えてきたのだ。
そして、その時私は今までの自分が、いかに表面的な顔しか見て来なかったか、単なる顔の善し悪しだけで、顔は関係ない、なんて言っていた自分が、いかに薄っぺらだったか、気がついたんである。
若い頃、私は自分の顔が嫌いだった。
目がもう少しすっきりしていたら、とか、眉毛が薄くてぽしゃぽしゃしてる、とか、とにかく、全体的に、自分の望む顔、と現実の自分の顔にものすごく隔たりがあったのだ。
二十代半ば頃の私は、タケちゃんマンのような眉毛をしていた。当時は今と違って太眉が流行りだったとはいえ、それにしてもやり過ぎだった。当時の写真を見ると、げっ、こんな顔で人前に出てたのか、と恥ずかしさのあまり、首がひゅるひゅるーっと伸びそうになる。
最近はさすがにあんまり見かけなくなった「山姥メーク」だが、私にはあのメークが、
彼女たちの「武装」のように見える。あれは、「私のことは放っておいて」という、彼女たちの強烈なメッセージなんじゃないか、と思えるのだ。同時に、「私のことをちゃんと見て欲しい」という悲鳴のようにも思えて、見るたびに何だか胸がきゅっとしてしまう。うーん、そんなに自分の顔が嫌いなのか、とどこかで感心さえしつつ、あそこまで自分の素の顔を消すことのできる彼女たちが、どうにも危なっかしくて、気持ちがざわざわしてしまう。
今、私は自分の顔が嫌いではない。薄い眉毛も、奥二重の目も、まぁ、こんなもんだろう、と思っている。嬉しいことがあると、うん、なかなかいい顔してるじゃん、と思うし、気持ちがくしゃくしゃしていると、あらまブッサイクになってんなー、と思う。でも、いい時の顔も、悪い時の顔も、これが私だ、と思っている。これ以上にはなりようがないけど、これ以下になることもないんだから、それでいいや、と思っている。
男の本当の顔が見えてきた時、そこには、単なる顔以上のものがあった。それは、顔全体がかもしだす雰囲気だったり、顔に刻まれた歳のとり方だったりした。顔には、色んな味があって、その味、というのは、とりもなおさず、その人の生きてきた時間の反映だ、と今は思う。
でも、だからといって、面白いこと、楽しいことばかりを体験してきた、苦労知らずの顔がいいのかといえば、それは違うと私は思う。むしろ、辛いこと、切ないことをくぐり抜けてきた顔の方が、いい味を出しているんじゃないか、という気がする。いや、きっとそうだ。
泣きたい夜、シンドイ朝、くじけそうになりながら、それでも何とか気持を前に進めて乗り越えてきた証しは、ちゃんとその人の顔に出ると思うのだ。例えば、それが、皺という形で現れたとしても、だ。
その皺こそが、その人の勲章だ、と私は思うのだ。