« 前の記事 | 最新 | 次の記事 »

連載第8回 リリアナ(3)

 マドリードのメトロ3号線にアルグェリェスという駅がある。学生がたくさん住んでいる明るいエリアで、カリェ・デ・プリンセサ(お姫さま通り)なんて名前の大通りの両側にはたくさんの店が並んでる。そういえば日航のオフィスもここらにあったっけ(オレ、パキスタンエアーしか関係なかったけど……)。
 安ホテル暮らしで宿代にヒィヒィというオレと違って、賢明にしてすばやいリリアナは、すでにこの街の裏通りに部屋を借りていた。
「とってもちいさい部屋なのよ」などと言ってはいるが、まさかニチポンの安アパート、西日も射さぬ三畳一間なんてものより狭いはずはない。
 抜けるような青空、さわやかな風の吹く四月だった。オレはリリアナが描いてくれた地図を片手に、アルグェリェスの裏通りをうろついていた。今日は彼女の住む部屋を見せてもらう約束なのだ。
「あにゃにゃ! この道はすでにさっき通ったような……いや違う? わからない、そこらを曲がるか……」
 角を曲がって視線を上げたとたん、2、3軒先の戸口から石畳の道へ踏み出したリリアナが、大きなショールを頭ごしに肩にかける姿が見えた。街路樹の木洩れ日のやわらかい光の中に、まるでスローモーションフィルムのように空を舞ったショールがゆっくりと波うって、リリアナが振り返った。オレを見つけてニコッ!と笑った。
「ピッタリね! ムイ・ビエン!」
 まぐれ当たりのドンぴしゃり。迷わずに来られたかと聞くリリアナに、
「ノノノ! バッチリ、だいじょうぶ!」
 と答えたが、なぜかリリアナの笑顔がまぶしい。オレは頭の中がカッと熱くなって、どぎまぎしていた。
 リリアナとオレは彼女が今出てきたばかりの建物に後戻り。ドアを開けると中は廊下になっていて、安手ながらも小ギレイな壁紙置物カーペット。左奥に扉があり、右側にはきれいに磨き上げられた石造りの階段が二階へと続いている。リリアナは奥の扉をそっと指さして「大家さん」とささやき、口の前に指を立て「シィーッ!」と言いながら階段を上がりはじめた。
 2階、3階と上がっても、さらに彼女は上へと向かう。あらら、四階から上はセメントの外階段になってら! 壁もセメントの白ペンキ塗りとなり、だいぶ雰囲気が変わってきた。
 五階までたどりつくと、ここらはもう床までセメントのまま。それまでのピカピカ扉とはうって変わった素朴印木造扉がひとつ。扉の前に立ったリリアナは「エッヘン!」と胸を張って、ポケットから鍵を取り出した。
 中は入ったところが小さな台所になっていて、奥にタタミ八畳ほどのスペースがある。なんだ、けっこう広いじゃないの……とよく見れば、天井が屋根の傾斜そのままに下がっていて、立ったまま部屋の奥へ行こうと思えばリンボーダンスをすることになる。天井の真ん中にあるひとつだけの小さな窓が明かり取り。リリアナがマユ毛を上げて見せるから天井の窓を押し上げて頭を突っ込むと、屋根の向こうに町並みが広がって見えた。(フゥーム!……)まるで屋上の戦車兵てな気分。
 屋根裏下宿といえばパリってな短絡回路ができていたが、これぞまさしくスペインはマドリードの屋根裏下宿なのであった。狭いながらも楽しい我が家。小さなガス台で紅茶を入れてくれるリリアナの暮らしぶりは、安ホテルを渡り歩くワラジ男にはひどく羨ましいものだった。
 その日、オレたちはたくさんのことを話した。日が暮れてもワインのグラスを重ねながら、いつまでもしゃべり続けた。そして、ついに沈黙の時がおとずれた。

「スペインに来たらオレンジを食べなきゃ!」
 リリアナは無類の果物好きで、連れ立って街を歩いていると必ず一度はメルカードに入り込んでフルーツを買うことになる。と言っても、オレの方は町場育ちの駄菓子屋通いという生い立ちのせいか、ハムカツやあんこ玉にはひどくそそられても、なぜか果物には淡い欲求しか持ち合わせていない。自分で買って食べる果物といったら、一年にバナナ10本、リンゴが3個てなところで、これじゃあ動物園のオラウータンの一食分ではないか。
 メルカードには、「どうだこれでもか!」というほど見事にフルーツが山積みされていて、これがまたひどく安い。今日も紙袋いっぱいのオレンジを買ったリリアナは公園をめざす。日だまりのベンチに腰かけて食べるバレンシアオレンジはたまらないのだ、と言う。まるでお猿のようなやつだ。
「これはおいしいよ、ぜったい!」
 リリアナの見立てはするどく的確で、手渡されたオレンジは甘く、みずみずしく、ほのかな野生のやさしさとさわやかさが、この世の恵みとしてそこにある。
「アリガト、おいしかった」
 味見した残りのオレンジを返そうとすると、リリアナは事態が理解できない、という顔でオレをじっと見た。「うまかったならなぜ食べぬ?」と言うので、「うまかったからもういらぬ」と答えると、けげんな顔をしてしばし考えてから、「ワーカラナイ?」と首をかしげて見せた。
 あのね、オレにも味はわかるんだ。ただ「ああおいしかった、おしまい」と、ほんの一口食べるとそこで終了してしまうのだ。
 ある日、リリアナがニンジンを買いたいと言うので、オレはてっきり料理にでも使うのかと思ったが、メルカードを出た彼女はさっそく紙袋を開けてニンジンを取り出した。シャツでゴシゴシこすってから、いきなり丈夫な前歯でポリン!
「うん、おいしい。とっても甘いよ!」
 リリアナは袋の中から小ぶりのやつをみつくろって差し出す。
 おらぁ、あのあの……実はむかぁし保育園で、ニンジンのヘタの青いところ食べてゲロ吐いたことがあって、それからニンジンはちょっと、……と言う術もなしエスパニョール。
 ええい、ままよ、仕方なくオレはニンジンを受け取って恐る恐る「ポリン!」とかじってみた。「……?」
 うまい。初めて食べるエスパニアの人参は甘くフルーティーで、太陽と土が作ったお菓子のような味がした。そしてボリボリと噛むうちに口の中が笑いだすのであった。

« 前の記事 | 最新 | 次の記事 »

ページTOPへ