ひょっとしたら老人はそう言葉を続けたのかもしれなかった。しかし残念なことに、老人の話す言葉のいくつかを、私は十分に理解することができなかった。ここも能登には違いないが、やはり土地によって言葉は微妙に変わるものらしい。
老人は伺いをたてるように、黙ったままこちらに顔をむけた。私はなんと答えてよいものやらわからず、「そやねえ…」と意味もなく呟いた。そして、曖昧に笑ってみせた。
何とも要領を得ない手さぐりの会話に、しびれを切らしたのは老人の方だった。老人はふいにそれまでの話を変えた。
「なあ、よかったらカワダイを一匹持ってくか?」
老人はそう言うと、岸壁につないである小さな漁船に向かって歩きだした。やはり私の思ったとおり、老人は漁師だった。
老人は、漁船の艫(船尾)まで来ると、そこで足を止めた。それから腰をかがめて岸壁に結わいつけてあったロープを解き、それを上へと引き上げた。直径は1メートルぐらいだろうか、円形のビニールパイプでできたいけすが水中から姿を現し、中の魚がバシャバシャと水しぶきをあげた。私は岸壁から身をのりだすようにして、いけすの中を覗き込んだ。中では10匹程のクロダイとスズキが、黒光りする魚体をくねらせながら、口をパクパクと動かしていた。どれも一尺は越えている。よい型だった。
「おお~、すごいね。釣ったんですか?」
「ああ、立縄(たてなわ)でな。」
老人は誇らしげにそう言うと、漁船の方を指さした。老人につられて目を移すと、漁船のデッキには漁に使うぼんてんがきれいに並べて置いてあった。
立縄というのは、水面から海底に向けて垂直に降ろした釣り糸の所どころに、枝針をつけたものだ。砂を詰めたビール瓶などを重石に使うのだが、目印の役目も果たす浮子(うき)の方には、旗つきの竹竿が用いられる。これがぼんてんである。
「どうするや、持ってくか?」
老人は人の好さそうな笑顔を浮かべながら、慣れた手つきでいけすの口を開いた。そのしぐさを見ながら、私はすぐにピーンときた。おそらく、いつにもまして今朝は大漁だったのだろう。老人は誰かにそのことを自慢したかったのだ。私への親切な申し出は、漁の成果を見てくれたことへの報酬に違いなかった。
私は老人の問いかけを無視するかのように、この魚達をどうするのかと尋ねた。
「知合いがな、七尾にある市場に持っていってくれるんや。」
「ふーん、そりゃあ、もったいないなあ。このまま活魚にして、氷見の市場に持っていけば、はるかにいい値がつくのに。」
思わず私がため息をつくと、今にも魚を取り出そうとしていた老人は、一瞬ギクリとしてそのまま体を硬直させた。老人は眉をひそめ、いぶかしげに私の顔を眺めた。
「あんた… 一体何物や。」
「あっ、俺?。俺もじいちゃんと一緒、漁師やっとるげん。」
「漁師って何の漁師や?」
「大敷(定置網)に乗っとるんや。」
「そうか、そうか、にいちゃんも漁師だったんか。」
私が同業である事を知ると、老人はとたんに相好をくずして、打ち解けたように笑顔を浮かべた。
漁師相手に釣果を自慢するのも、野暮なことだと思ったのだろうか。老人は思い直したように、いけすを元通り水中に戻すと、すっと立ち上がってそのままきびすを返した。私は誘われるように老人の後を追った。未だ体験したことがない立縄漁について、まだいろいろと話を聞いてみたかった。
老人が向かったのは、道路際に建てられた木造の小屋だった。おそらく漁網倉庫にでも使っているのだろう。何か変わった漁具を見せてもらえるかもしれないな、私は期待に胸を膨らませた。老人の緩慢な歩調に合わせながら、私もゆっくりとした足どりで横に並んだ。
多くの漁師達がそうであるように、老人もあまり饒舌ではなかった。煙草の煙とともに、ぼそぼそとこぼれ落ちる言葉は、やはりどこか聞き取りにくく、それは、私がこの土地の方言を十分に理解していないせいばかりだとは思えなかった。
立縄を仕掛けに行くのは夕方で、明くる日の朝早くそれを引き上げにゆく。最も良い餌は生きたカニであるが、ときにはゆでたタコを切身にして使うこともある。釣れた魚は生かしたまま持ち帰っていけすに入れ、ある程度数がまとまったところで市場に出荷する。私は老人の言った言葉を頭の中でそしゃくしながら、ようやくこれだけの事を理解した。
漁師達を相手に、海の話をするのがとても好きだ。経験を糧にしながら彼らが繰り出す話は、冒険小説さながらに面白く、それは新鮮な潮流のように私の胸に流れ込んだ。
小屋の前まで来ると、老人はアルミの戸をガラガラと開け、私の存在など気にもとめないように中へと入っていった。「入れや」とは言われなかった。私は一瞬気後れしたが、すぐに老人の後へ続いた。そうする方がむしろ自然であるように思えた。
小屋の中は、芳しい木の香りに満ちていた。高校のころ、アルバイトをしていた製材所と同じ匂いだった。おそらくこの木造の小屋自体が発しているのだろう、はじめ私はそう思った。しかし、床に散乱しているかんなくずを目にしたとき、ようやくそこが何かの作業小屋であることに気づいた。老人に促されるように小屋の奥へと進むと、そこにはほとんど完成しかけたテンマ(小舟)が、白木のまま置いてあった。二間ほどの小さな木舟ではあるが、バランスといい、デザインといい、とても素人のものとは思えなかった。ひょっとしてこの老人が自分で造ったのだろうか?
まさか、そんなことはあるまい。私はすぐに自分の考えを打ち消した。きっとこの小屋には、老人のほかに舟大工も出入りしているのだろう。
「これ、誰が造ったんやろ?」
「わしや、わしが造ったんや」
老人はいかにも当然であるといった感じで、あまり抑揚のない声で答えた。私は驚きもあらわに、目をパチパチとしばたたいた。
「うひゃあ~、すげ~もんやな。じいちゃん、舟大工だったんや。」
すっとんきょうな声をあげて、ひとしきり感心した私だったが、今度は造船についての好奇心が、ムクムクと頭をもたげてきた。
テンマに使われるのは主にスギ材で、しかも堅くて丈夫な中心部分だけを用いる。生木だと狂いが生じてしまうため、何年か寝かせた後、古い物から順番に使ってゆく。塗料を塗らずに客に舟を渡すのは、材料の良さを確認してもらうためである。これらのことを、老人はやはりぼそぼそとした口調で語った。
私はふんふんとうなずきながら、熱心に耳を傾けた。舟についてはほとんど無知な私だったが、昔ながらの木舟が、決して馬鹿に出来ない利便性をもっていることは、短い漁師生活の中で、すでに感じていた。
「やっぱり木のテンマはいいね。最近はFRP(強化プラスチック)が主流だけど、漁に使うんやったら、丈夫で安定している木のテンマの方が、ずっといい。」
「こいつらは40年使えるからな。車ならそんなにはもたんよ。そうやなあ…にいちゃんになら、5万で売ってやるぞ。」
自慢のテンマを誉められたことが嬉しかったのだろうか。老人はいたずらっぽくそう言うと、ニヤニヤと笑ってみせた。 ...つづく