漁に使う孟宗竹を何本か切り出しに行こうと、その日私たちは奥能登に向かって車を走らせていた。外は北西の風が吹き荒れ、海は白波が立っている。雨雲が暗くたなびいて、今にも泣きだしそうな空模様だ。今年の暦も、残すところ2か月あまり。気が滅入るような冬の日本海独特の気候にも、そろそろ慣れておく必要があった。
行き交う車もさほど多くはない海沿いの道は、ドライブにはもってこいである。休日ともなると、私はカメラと三脚を車に積んで、この道を走る事が多かった。富来町を抜けて門前町に入ると、右手に迫る山並も次第に険しさを増し、岩と緑の峻厳な風景が広がり始める。煉瓦色の岩盤を貫く短いトンネルを抜けたところで、3トントラックのハンドルを握っていた的場さんが、ふいにスピードを緩め、外を指さした。
「おいおい、佐藤、あそこ見いや。」
「なんですか?」
私は頬づえをついたまま、窓の外へと目を向けた。そこは小さな港だった。刺し網用の漁船が何隻かもやわれている。道路際の空き地には定置網が山積みにされたままだ。港をふさぐような形で二つの防波堤が外海をさえぎっているのだが、的場さんが指さしたのはその内右側の防波堤の方だった。
「ほら、防波堤の先端部分が真っ白に濁っているやろ。あそこが最高のポイントなんや。」
私は言われるままに、防波堤の先端部分へ目を移した。確かに的場さんの言うとおり、その部分だけが水底の泥を巻き上げているかのように、白く濁っている。港の出入り口にあたるだけに、ひときわ潮の流れが早いのだろう。こういう場所にはよく魚が集まるのだという事を、私も知識としては知っていた。的場さんが口にしたポイントというのは、もちろん魚がよく釣れる場所という意味だ。
船頭の的場さんは、もともとは自動車の板金塗装を仕事にしていたのだが、釣り好きが高じて漁師になってしまったという変わった経歴の持ち主だ。私が釣り好きであることを知っている的場さんは、二人で車で出かけた時など、こんな風にしてクロダイやスズキの好ポイントを教えてくれる事があった。実際私は、的場さんから教わったポイントで、50キロオーバーのクロダイを釣り上げたことがある。
的場さんはここ門前町の出身である。しかも、若いころにはこの港を基点にした定置網漁に従事したこともあるというのだから、このあたりの海を自分の庭のように熟知しているのもうなずける話だ。
私は的場さんが最高のポイントだと言う防波堤の先端に、もう一度目を凝らした。打ち寄せる波がコンクリートの壁にぶつかるたびにしぶきを飛ばし、渦のようなうねりが、あたりの水を撹拌する。ここからはうかがい知ることができないが、あの白濁した不透明な屋根の下では、今ごろ尺クラスのクロダイ達が、狂乱したように餌を追い求めていることだろう。
そんな想像をめぐらせながら、私はにわかに胸が高鳴るのを感じていた。 頭の中に暦を思い浮かべ、次の休日には何の予定も入っていないことを確かめる。孟宗竹の切り出しなど、もはやどうでもよくなっていた。
待ちに待った休日がやってきた。天気は薄曇り、あえの風がさらさらと頬をさする。能登の人達は、海から陸に向かって吹く風を「あえの風」と呼ぶ。反対に山から海へと吹きおろす風は「だしの風」と呼ばれている。あえの風は波を呼ぶ。そして波は魚を呼ぶ。釣りにはもってこいの日和である。
いつどこで釣りがしたくなるとも限らないので、釣り道具一式は、常時車に積み込んである。途中、釣り具屋で餌を購入した私は、ウキウキと心を踊らせながら、門前町に向けて車を飛ばした。道路は申し訳ないほど空いていた。私が住む志賀町から門前町までは、車で一時間程の距離である。目的の港へは昼前に着いた。
昼食を用意するのをすっかり忘れてしまったが、いったん釣りを始めてしまえば、どうせおちおち食事などしてはいられない。なあに、その分夕食には脂の乗ったクロダイの刺身が腹一杯食べられるさと、私は捕らぬ狸の皮算用をしながら独りほくそ笑んだ。
さっそくトランクから釣り道具を取り出すと、私ははやる心を抑えながら、足早に防波堤へと向かった。絶好の釣り日和にもかかわらず、釣り人の姿がまったく見あたらない。どうやら私の独壇上である。
(こりゃあ、運がいいな。ところで防波堤の入口はどこだろう?)
口元を緩めながら、足どりも軽く岸壁の際までたどり着いた私だったが、そこから防波堤に目をやったとたん、呆然と立ち尽くしてしまった。そこには予想もしなかった光景が広がっていたのだ。
「そ、そんなあ!」 私は思わずひとりごちた。
なんと目指す防波堤は、完全に陸から切り離されており、船を使わなければ、渡れないようになっていたのだ。思えば的場さんは、あそこのポイントが最高なのだと教えてくれはしたものの、防波堤まで歩いて渡れるかどうかなどという話についてはまったく触れなかった。確かめなかった私ももちろん悪いが、それにしてもあんまりではないか。渡るのに船が必要なのであれば、一言ぐらい教えてくれてもよさそうなものである。
私は歯ぎしりをしながら、沖にそそり立つ防波堤を恨めしそうに眺めた。しかしいくら地団駄を踏んだところで、防波堤が陸に向かって延びてくるはずもない。ウヨウヨと群れをなすクロダイ達を目の前にしながら、私は泣く泣くその場所を諦めなければならなかった。
そんなわけで、すっかり出ばなを挫かれてしまった私だったが、もちろんこのまま手ぶらで帰るわけにはいかない。他にどこか良いポイントがないものか、私は港の周辺を探ってみることにした。二つある防波堤のうち、向かって左側の防波堤へは歩いて行ける事が分かったが、水深が浅すぎてまるで問題にならない。港の出入口に近い所であれば、少しは良いポイントが見つかるだろうか、私は水深と潮の流れを確かめながら、岸壁を縁づたいに歩いた。
「あかん、あかん、そんな所はなんも釣れんよ。」
突然背後で声がし、私は一瞬ぎくりとした。てっきり港には誰もいないと思っていたのだ。
振り返ると、そこには老人が立っていた。背の高い、細身の男性である。
一見すると歳は65ぐらいに思えるが、それは褐色に日焼けした肌と、だいぶ心細くなった前髪のせいで、実際にはもう少し若いのかもしれなかった。銀縁の眼鏡の奥から、分厚いレンズに強調された瞳が、ギョロリとこちらを向いている。しかし、その目と口元は、やさしい笑みを浮かべていた。風貌とこの場所からして、おそらく地元の漁師ではないかと私は思った。
「にいちゃん、カワダイ(クロダイ)釣りにきたがか?」
「ああ、そうなんやけど…。あんまり良い場所はなさそうやね。」
「う~ん、そやなあ。」
老人は腕組をとくと、胸にしまってあったハイライトを取り出し、ライターで火をつけた。それから煙草を持った方の腕を、ゆったりとした動作で沖に向けた。腕の動きにつられるように、紫煙がゆらゆらと立ち昇った。
「あっちにも防波堤があるやろ。あの先端と沖側はよう釣れるんやけど…。歩いちゃ行かれんしなあ…。」
「なんなら、わしが船で渡してあげようか?」
...つづく