今年最後の漁が行われたその日、タカさんはふらりと港にやってきて、私達と一緒に沖へと出かけた。ときおりこんな風に突然やってきては、漁に同行したり、網の回収作業を手伝ったりしてくれるタカさんであったが、その好奇心は、なにも海だけに限ったことではない。4tトラックの運転から庭木の選定、はたまた自宅の納屋の設計・施行までと、とにかく何にでも興味を示して、いつのまにかそれを自分のものにしてしまう人だった。額に汗をかきながら、私達と一緒になって網を手繰り寄せるタカさんの姿を見るたびに、やっぱり出世する人というのはどこか違うものだなと、私は妙に納得した気持ちになるのだった。
網の回収を終えて港に戻ると、タカさんはその後何か用事があったらしく、「今晩久しぶりに一杯やらんか?、後で来いや。」とだけ私に言い残すと、取り分の魚を慌ただしくクーラーボックスに詰め、早々に港を去っていった。
その後まもなく仕事を終えた私は、夕刻を待ってタカさんの家へと出かけた。出迎えた奥さんに促されるまま居間に上がると、テーブルの上にはシマダイやイカの刺身、それに煮物や蒸したズワイガニといったご馳走がところせましと並べられていた。
そのかたわらに腰を降ろしていたタカさんが、「おお、敬太か、こっちにこいや。」と、座ったまま私を呼び寄せた。私の到着が待ちきれなかったのか、タカさんは既に飲み始めていたようで、目の前に置かれた冷酒の瓶には、ほんの申し訳ばかりの酒が残っているだけだった。少し赤らんだ顔で、ワイシャツのボタンを外したままくつろいでいるその姿を見ながら、やっぱりこの人はサラリーマンなのだと私は思った。
沖での長い労働を終えた後だったので、私も腹を空かせていた。タカさんに注いでもらったビールをグーッと一気に飲み干すと、大皿に美しく盛りつけされた刺身に、さっそく箸をのばした。自分で捕ってきた魚を食べるのは、今年はこれが最後である。そう思うといつにも増して、目の前の刺身が貴重なものに思えた。
タカさんの奥さんはとても料理の上手な人で、創意工夫を凝らした手料理は、いつでも私の目と舌を楽しませてくれた。タカさんと漁の話に夢中になり、奥さんの手料理に舌鼓をうちながら、すっかり幸せな気分に浸っていた私であったが、大皿に乗せられたズワイガニに手をのばしたとき、今年のカニ漁が三日前に解禁されたばかりであることを、ようやく思い出した。目の前のカニは、もちろん私にとって初物であった。
「上野港の漁師にでも貰ったんですか?」
「なんもや、行ってきたんや。」
「へえ~ そうなんや。」
答えた後で、私はタカさんの言った言葉の意味がなんとなく気になりだした。
「行ってきたって誰がですか?」
「俺や、俺が行って捕ってきたんや。」
私はしばらくの間、呆然としたままタカさんの顔を見つめた。予想もしなかった答えに、返す言葉が見つからなかった。
数ある漁法の中でも、底引漁での労働は決して楽な部類には入らない。何時間もかけて沖合いまで出かけ、荒波に翻弄されながらの仕事である。ましてやこの時期、寒さと闘いながらの長時間労働ともなれば、二年間定置網漁で海に慣れ親しんだ私ですら、躊躇するかもしれなかった。
「いやあ、すごい。タカさん、ほんとにすごいよ。」
私は酒で火照った喉の奥から、絞り出すように感嘆の声をあげた。 手放しに誉めちぎる私の姿が、タカさんの心の頑なな部分を揺り動かしたのだろうか。いつか見た大きな目が、まっすぐにこちらを向いた。
「ほんとのこと言うとな、俺は漁師になりたかったんや。」
その日二度めの驚きだった。今まで何度となくタカさんとは酒を酌み交わしてきたが、こんな話を聞かされたのはもちろん初めての事だ。
「どうしてならなかったんですか?」
いつになく真剣な面もちで私は尋ねた。
「おふくろがな、どうしても漁師だけはならんといてくれって、俺にそう言うんや。どうにもならんでなあ……」
タカさんはしんみりと呟くと、まだ半分ほど残っている酒のグラスに右手を添えて、一気に喉へと流し込んだ。
今まで好き勝手に生きてきた私には、誰かに反対されたから好きな道を断念するという考え方が、正直言ってあまりよく理解できない。けれど人にはそれぞれの事情というものがある。タカさんにとっては、どうにもならないことだったに違いない。
「なあ敬太、俺は海が好きや。海はええなあ、そう思わんか?」
いつもより早いペースで酒に酔ったせいか、タカさんの語り口はいくらか熱を帯びていた。
「ああ、ほんとやね、海はいいね。」
私は何度もうなずきながら、長い間の疑問に、ようやく答えを見つけた気がしていた。