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連載第1回  それぞれの海 【その1】

 つきっきりで、網の修繕を私に教えていた船頭が、とうとうしびれを切らして大声を張り上げた。
 「えーい、なんちゅう物覚えの悪い奴や。何べん同じこと教えたら覚えるんや!ええかげんにせーや。」
 確かに船頭の言うとおり、私は物覚えが悪い。国語の漢字相撲テストでは、どんなに頑張ってもせいぜい関脇どまりだったし、新しく習った数学の公式をなんとか理解できるのは、いつでも授業が終わってからだった。社会に出て、ようやく「勉強」という屈辱から解放されたと安堵していたというのに、サラリーマン時代ならいざ知らず、よもや漁師になってまで、頭の悪さを露呈して醜態をさらすはめになるとは、思いもしなかった。
 しかも先生が悪い。隣にどっかりと腰を降ろし、口元に白いつばきをためながら、まくし立てているのは、泣く子も黙る鬼船頭なのである。今から思うとこのころの私は、船頭と顔を会わせるたびに怒鳴られてばかりいたような気がする。
 サラリーマンを辞めて漁師になった私が、一番最初に立てた目標が、一日にどやされる数を10回以下にするというものであった。だが、そんな恐ろしい船頭からじきじきに指導を受けたのでは、べったりとした緊張感が背中に張りついてしまい、とても冷静な思考力など働くはずはない。ただでさえ物覚えが悪いというのに、真っ白に染まった頭の中では、何度も繰り返される船頭の言葉や手の動きが、空しく素通りしてゆくばかりであった。
 「おい、佐藤、ええかげんもうできるようになったやろ。次はどうすっか、自分でやってみいや。」
 やってみろと言われても、むろんできるはずなどない。それでも、地蔵のように縮こまったまま、罵声を浴びるよりはましだと考えた私は、意を決して竹製の針を手にとった。破れた網の目に目を凝らし、おぼろげな記憶だけを頼りに、おずおずとした手つきで破れの左側に針を入れると、すかさずその針をしわくちゃの手が取り上げた。むぎわら帽子の下から、猛禽のような眼光が私を見すえている。心臓をつかまれるような思いだった。
 「なんじゃそりゃあ、誰がそんなやり方を教えたんや。もうお前には教えとられん。家でちゃんと覚えてこいま!」
 在所中に響きわたるような大声で怒鳴りつけると、船頭は私を見放したかのように背を向けて、自分の仕事にとりかかり、それっきりこちらをふり向こうとはしなかった。
 百浦港から続くなだらかな坂道を登りきったところに、この広場はある。ビニールシートの上に広げられた網には、所どころに青い目印がリボンのように結ばれており、これが修繕を要する箇所というわけだ。乗組員達は、その目印を頼りに網の上に腰を降ろすと、自家製の竹針を手にしながら、次々に網の目を繕ってゆく。
 沖での殺伐とした喧騒など、ここでは必要なかった。やれ、今日の水揚げはいくらだったとか、どこそこの娘が今度結婚するとか、そんなとりとめのない話ですごす午後のひととき、それこそが、私の求めていた漁師町の光景だったのだ。
 しかし私には、そんな情景を楽しむ余裕など、あるはずはなかった。頭上をにぎわす小鳥のさえずりも、風の形になびく金色の稲穂も、そして日差しの強弱によって色合いを変えてゆく眼下の海ですら、暗たんたる心には、何も訴えてはこなかった。
 船頭は家で覚えて来いと言ったが、教科書もないのにどうやって覚えればよいのか。頼りない記憶力をいくら反すうしてみたところで、一晩かかっても習得できるとは思えない。心はふさぐばかりだった。
 翌朝の漁でもさんざん沖で叱られた私は、しょぼくれた表情を隠すこともできないまま、港での選別作業を行っていた。沖での仕事が厳しいものであることは、漁師になる前からある程度は予想していた。石にかじりついてでも、耐えてみせるぞという覚悟もしてきたつもりだった。だが、私を憂うつにさせていた原因はほかにあった。
 この日も「網洗濯」と呼ばれる網の修繕作業が、午後から予定されていたのだ。沖での重労働に耐えられなくて挫折するならともかく、女性や子どもですら習得できそうな陸上での仕事に頭を悩ませている自分が、とても情けなく思えた。
 富山県の氷見にある市場にトラックを送りだし、後片づけを終えると、朝の仕事からようやく解放された私は、一人とぼとぼと自分の車に向かって歩き始めた。すると、誰かが私の肩をポンと叩いた。歳は50近いだろうか、みんながタカさんと呼ぶ男性が後ろに立っていた。親方の友人であるタカさんは、そのよしみで選別作業を手伝いに来てくれているらしかったが、私はまだあまり言葉を交わしたことがなかった。小柄な体には少し大きすぎるほどの目をまっすぐにこちらに向け、タカさんは私に言った。
 「なあ敬太、こんなでかい海を相手に仕事しとるくせに、何を小さいことでくよくよしとるんや。今が一番大変なんや。半年辛抱すりゃあ、ちょっと楽になる、一年頑張ればもっと楽になる、そう思ってふんばれや」 
 それほど親しくしていたわけでもないのにと、少し意外には思ったのだが、毎日とげのような言葉ばかりを浴びせられていた私の心に、タカさんの言葉は温かくしみた。すべての人が自分につらく当たるわけではない。こんなふうに励まし、応援してくれる人もいるのだと思うと、少しだけ気持ちが楽になった。
 それからというもの、タカさんはことあるごとに私に声をかけてくれるようになった。たいていは家での夕食に誘ってくれることが多かったが、ときには温泉や寿司屋に連れて行ってくれることもあった。そして、タカさんが奥能登にある観光レストランで支配人を務めており、県下の観光業界では相当に名が知られているらしいということを知った。社会的な意味においては、十分な成功を収めているはずのタカさんが、20も歳の離れた、いわば鼻垂れ小僧のような私のことを、どうしてこれほどまで気にかけてくれるのか、それが私にはとても不思議だった。
 苦手だった網の修繕も家での特訓が実を結び、不器用ながら何とかこなせるようになった。そして沖で船頭に怒鳴られる回数も、いつしか次第に減っていった。
 「よし、今日のお前は100点や。」
 初めて船頭が私のことを褒めてくれたとき、私はようやく長いトンネルから抜けたような気がした。そしてそれからの船頭は、えびす様のような温和な表情だけを、もっぱら私に向けるようになった。
 「ここに来たころのお前はとても危なっかしくてな、もしも怪我でもさせてしまったら、俺は親御さんに会わせる顔がないやろ」
 まるで言い訳でもするかのように、船頭がある日そう述懐した。本当はとてもやさしい人なのだと私は知った。
 私が住む石川県志賀町は、能登半島の外浦と呼ばれる地域に位置している。一年を通して穏やかな表情を崩さない富山湾側の内浦とは対称的に、冬ともなれば、西高東低の気圧配置による悪天候によって、海は連日大時化となってしまう。そんなわけで毎年10月の暦がめくられるころになると、私達は漁に見切りをつけ、網を回収しなければならなかった。  ...つづく

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