第5回

★カレーも作れない台所の天才

 大連から戻ってきて1週間あまり。Fのつてで中国カレー屋第1号店出店の地が天津と決まったまではよかったが、大きな問題がまだ残っていた。商品のカレーである。
 われわれが家庭で食べているカレーというのは、よほど偏屈の料理好きでもないかぎり、数ある香辛料を好みで混ぜ合わせ、独自のカレー粉をブレンドして作るなどという面倒なことはしないはずだ。市販されているインスタントのカレー・ルーの素を買ってきて、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、豚肉などを炒め、それらを茹でた中に溶かし込むというのがごくごく一般的なカレーの作り方であると思う。その基本を踏まえたうえで、さらに他のメーカーのカレー・ルーの素を2、3種類掛け合わせてみたり、コリアンダーやクミンなどの香辛料を加えたりのほか、リンゴをすり入れるなどの変化技でそれぞれの家庭の味というものを作っているだろう。これに甘さ辛さの強弱が好みとして加わることで、独自のカレーが出来あがりということになる。
 しかしいくら独自とはいっても、基本となるカレー・ルーはあくまでも市販のインスタントのものなのである。ククレだジャワだバーモントだフォン・ド・ボーだと言っても、味そのものの部分はどのメーカーも変わらないというのが実情だ。端的に言ってしまえば、化学調味料の味である。つまり日本の家庭料理の定番であるはずのカレーは、じつはオリジナル手作りとは大きくかけ離れたインスタント食品をアレンジしているだけにすぎないのである。
 ではなぜ、インスタントのカレー・ルーの素がこれだけ定着したのだろうか。答えは簡単。
 香辛料を自分で配合してカレー粉から作ってゆくなど、インド人じゃあるまいし、面倒くさくてやってられないからだ。しかも日本のカレーは本場インドのそれとは違って、十数種類どころかモノによっては20種類以上もの種類の香辛料を混ぜ合わせているから、とてもじゃないが素人に手の出るシロモノではない。いやいや、ごくフツーのインド人だって、そんなに多くの種類の香辛料を混ぜ合わせるなど冗談じゃねぇやと言ってラーメンを食いに逃げ出すかもしれない。実際、インドの家庭や大衆食堂で出されている日本人が呼ぶところのカレーは、3、4種類の香辛料をブレンドしただけの、ごくシンプルなものばかりなのだ。香辛料を複雑配合したカレーなど、日本式カレー独自のものなのである。
 などと気づいたのは、自分で独自のカレー粉を一から作ろうと台所に張り付き、朝から晩まで香辛料まみれになった末でのことだった。当初は、台所の天才であるおれをもってすればどうにでもなる。銀座中村屋までとはいかぬまでも、業務用カレー・ルーをアレンジしただけの、高円寺北口商店街そばのカレーがうまいと評判の喫茶店で出されているカレーくらいのものは出来ると自惚れていたのである。
 そう、まさに自惚れであった。
「クロダさん、食べたよ…」
 受話器から聞こえてきたFの暗い声が、挫折を知らなかったおれの台所人生を絶望の淵へと追いやった。
 予想はしていたのだ。あんなものが、ウマイと言われるはずがない。しかし、それにしてもだ…。
「まずいよ。だいたい漢方薬臭いカレーなんて、あるわけ?」
 言われてしまった。
 そもそもはFの提案だった。市販のカレー・ルーを使うことなく、中国で安く売っている香辛料をブレンドして使い、ゆくゆくは日本に逆輸出する。クロダさんだったらできるよね、というFの言葉におれは即座に答えたものだ。
 曾祖父は大英帝国インド総督の料理人だったんだぜ。
 Fは出張で出かけた中国で、しこたまオリジナル・カレー粉を作るための香辛料を買い込んで送ってきた。その数17種類。おれがジャワカレーやこくまろのパッケージ裏を見て買ってきてくれと言った香辛料だ。
 ところが第1の誤算が早くも見つかった。買ってきた香辛料を包んだ袋に書かれている標記が、当然のことながら中国語なのだ。クミンやガーリック、シナモンなど、なんとか中国語から訳すことができたものもあったが、どうしても訳すことができず、結果として名前がわからないない香辛料が5つ6つと出てきてしまったのである。しかもFもわからないと言う。おれから渡されたリストに書かれている何種類かが中国語に訳すことができず、適当に買ってきてしまったのだという。
 第2の誤算は、香辛料の種類はパッケージに書かれていても、その量は当たり前だが書かれていないということだ。これが本場インド式のカレーであるなら、多くても3、4種類を使うだけだから、大胆かつ適当に放り込んでもそうおかしなものにならないのだが、10種類以上は使う日本式ともなると、適当ではカレーにならないのである。おれは日本の食品技術力を甘く見すぎていたようだ。先人たちの血のにじむような努力があってこその、日本が誇るインスタント・カレー・ルーの素。ああ、プロジェクトX! なのである。
 そしてもっとも誤算であったのは、Fが仕入れてきた香辛料が、すべて漢方薬臭いということだった。コリアンダーにクミンにクローブと、日本で売られているそれらと同じはずなのに、なぜか大中国漢方薬の臭いしかしないのである。
 そうなのだ。Fが吐き捨てるように言った“漢方薬臭いカレー”というのは、すべて中国で売っている香辛料のせいなのである。
 おれは声を大にしてFに言ってやった。
「カレーの香辛料はインドに限る! 中国モノは使えん! だから店では、業務用のカレー・ルーの素を使うからな!」
 調べてみてわかったが、日本の飲食店で出されているカレーは、そんほとんどが業務用のカレー・ルーやカレー粉を使って作られているのである。それだけ手間も暇もかかり難しいということだ。
 日本のカレーは奥が深い。台所の天才をもってしても手を出せるシロモノではないのである。

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